輝きの島~奄美大島~

1908年に栃木県で生まれた田中一村は、名高い東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科に入学した。日本の中央画壇から離れずに活躍していれば、将来は確実に約束されていたのだが、一村はみずから独自の道を歩むことを選んだ。安泰な人生をもたらしてくれるかもしれないが、そこにいる限り、芸術家としては妥協せざるを得なかったであろう中央画壇とは一線を画したのである。奄美の自然の美しさや、多様な生物世界に魅せられた一村は、1958年、50歳のときに奄美大島に移住した。大島紬(つむぎ)の工場で働きながら最低限の生活費を確保し、質素な生活を続けた。1977年に一村がその生涯を閉じるまで、女きょうだいも経済的援助を行っていた。一村が一間限りの木造家屋で制作に励む姿が、写真に残されている(一村は庭先の小さな菜園で野菜を育てていた)。
鳥や生き物、咲きみだれるハイビスカス、ラン、ヤシ、熱帯フルーツ、海岸沿いに自生する無数のソテツなどをモチーフにした一村の作品は、その数の多さとは裏腹に、ほとんど売れなかった。奄美空港の近くに記念美術館がつくられたり、東京で展覧会が開かれたりするなど、一村の画業が認められるようになったのは、没後のことだった。一村のキャンバスには、ヨーロッパの画家アンリ・ルソーのように、ステンドグラスのような輝きに照らされるうっそうとした原生林や、多様な動植物の姿が細部に至るまで詳細に描かれている。驚くほど豊かな奄美の生物世界を構成している、あらゆる色調と有機的なテクスチャーが描き出されているのだ。まさにこの多様な生物の存在と、島にあふれる色彩が、この島に一村を引きつけた理由だろう。数としてはそれほど多くないとはいえ、観光客を今でもこの島に引きつけてやまないのは、その自然──日本における最も手つかずの自然の一つ──なのである。
実際に、奄美大島を訪れる最大の楽しみは、自然との出会いだ。奄美大島は奄美群島で最大の島である。最近では皆既日食の絶好の観測地として注目を集めたが、そうでもなければあまり話題にのぼることもない。奄美大島は沖縄と九州の中間あたりに位置し、1624年に薩摩藩の直轄地となった。かつては琉球王国(沖縄)の一部だったこともあるが、現在は鹿児島県に属している。奄美大島を、どっちつかずの、とらえどころのない島として片付けてしまいそうにもなるが、それは間違いだ。明確に説明することは必ずしも簡単ではないが、沖縄とも九州とも少しずつ違っている奄美は、その両方のよいところを兼ね備えている。
柳田國男は、奄美大島を地理・民族学的なカテゴリーの中に位置づけようとした最初の人物の一人だった。島までの距離そのものは変わらないのだが、蒸気船の時代には、そこに行き着くまでにかなりの時間を要した。高名な民俗学者だった柳田は、鹿児島港から、石炭を燃料とする旧式の蒸気船に乗船し、奄美大島の名瀬港にやって来た。現在でもまだ、速度は速くなったものの、昔と同じ航路を通って奄美に行くことが可能だ。柳田は1921年、沖縄本島の那覇へ向かう途上、奄美大島に立ち寄った。沖縄と奄美大島の慣習や郷土史をつづった柳田の記述によると、沖縄諸島と奄美群島のあいだには、密接な関係性と、差異の両方を感じることができるという。両島を訪れた人は、今でも島の地平線上に、二つの異なる文化とトポグラフィーの融合を見ることができる。海やサンゴ、きめ細やかな白砂、ヤシの木、ハイビスカス、ブーゲンビリアは沖縄をほうふつとさせ、金属屋根の木造の家屋は鹿児島のそれによく似ている。屋根の輪郭を観察すると、亜熱帯で見られる角度から温帯で見られる角度へと、その勾配が急になっているのがわかる。

熱帯の下生え植物を連想させる植樹は見られるものの、奄美大島の島内には密林地帯はない。希少動物や毒蛇、マングローブの組み合わせは、地理的・気候的には亜熱帯の沖縄に近いことを示している。島内で最も目立つ植物は、間違いなくソテツだ。ソテツは維管束植物(※2)のなかでも最大の成長点をもち、一見すると弱そうな印象を受けるが、驚くほど生命力の強い植物だ。ジュラ紀の湿潤温帯気候で最初に繁茂して以降、あちこちで盛んに茂っているのは、そのためである。グアム島は「ソテツの島」と呼ばれているが、グアムでは、ソテツの種子から採ったでんぷんを食用に利用している。しかし奄美では、日本でもよく知られているサゴヤシが、今まで旅行したことのあるどの地域よりも多く見受けられる。
小さな奄美空港から島の中心街である名瀬までは、バスでたっぷり45分ほどかかる。この島は、じつに大きな島なのだ。名瀬は奄美大島の活動拠点としては便利だが、旅行者にとっては見るべきものがあまりない、コンクリートに囲まれた中核都市である。奄美の最大の見ものは、やはり自然であり、昔日のままの海岸線や、内陸部の密林のような原生林が見どころだと言える。常緑広葉樹林には天然記念物に指定されているアマミノクロウサギが生息している。主として夜行性で、斜面に掘った巣穴や岩の隙間などで生活している。クロウサギよりも目にする確率が高いのは、背中が橙色のアカヒゲという鳥や、パステルカラーのアカショウビン、背中が赤く、一村の絵にも頻繁に登場するリュウキュウアカショウビンなどだろう。
一村は奄美大島の特産品である大島紬の染色工として働いていた。「奄美大島紬村」では、紬や絣(かすり)など、絹や木綿を使った織物の生産工程を見学できる。紬村は美しい丘の中腹にあり、園内は染色に使われるたくさんの花や植物に囲まれている。最初に行われる染色の工程には、気の遠くなるような手間がかかる。数え切れないほど繰り返し、石灰水とテーチ木(シャリンバイ)の樹皮の煮出し汁に浸して色を染め、田んぼの泥土につけて発色させる。それによって、糸を赤茶けた色に染めるのである。
沿岸部で最もおすすめの場所の一つは、島の北西部に位置し、田中一村の絵の主題にもなっている笠利(かさり)湾だ。また、背後にサトウキビ畑があり、美しい白い砂浜が広がる崎原(さきばる)海岸は、観光客がたまに訪れる程度で、人混みとは縁遠い。龍郷(たつこう)湾の美しい入り江を見晴らす道路からは、花が咲きみだれる絶壁や、海に面した南国風の町並み、平屋の木造家屋などを見ることができて、フレンチ・リヴィエラのような雰囲気を楽しめる。浮き桟橋のように見える木製の構造物の端っこでは、親子連れが釣りをしているのを見かけたが、よく見るとそれは、真珠の養殖いかだだった。奄美方言のなかでも特徴的な二つの方言のうちの一つが、この地区で話されている。琉球語の系統に属する奄美方言は、アマミノクロウサギと同じく、絶滅の危機にさらされている。話者は12,000人ほどしかおらず、その大部分は老人だ。
金作原(きんさくばる)原生林の手つかずの自然は、日本人にはほとんど知られていないが、まさに壮観だ。複雑に曲がりくねった未舗装の林道が、巨大なアワモリショウマやソテツが生い茂る原生林へと続く様子は、まるでジュラ紀の風景を見ているようだ。深い霧に濡れた森は、容易に人を寄せ付けない。この原生林で、午後のひとときを過ごしたときには、ガイドに導かれて未舗装の山道を歩く、エコツアーの6人グループにしか出会わなかった。
エコトラベルという言葉が、手つかずの自然と出会うことを意味しているのだとすれば、金作原の自然は、おそらく日本で体験できる理想的なエコトラベルの目的地だと言えるだろう。

旅行情報

東京、大阪、鹿児島から奄美大島までは、日本エアシステム(JAS)(※A)が乗り入れていて、毎日フライトがある。ただし、日本航空(JAL)グループは路線の見直しを検討中であり、注意が必要だ。また、鹿児島からは、船便が多数運航している。日本語が読めるなら、『ブルーガイドてくてく歩き27 屋久島・奄美』が奄美群島全域をカバーしていて便利だ。奄美空港内には観光案内所があり、英語を話せるスタッフもいる。名瀬まではタクシーでも行けるが、1時間ほどかかる。バスの方が安上がりだ。リゾートホテル「マリンステイション奄美」(電話:0997-72-1001)は、目の前にビーチがあり、各種ウォータースポーツのツアーも充実している。名瀬市の北部地区にあるビジネスホテル「ビッグマリン奄美」(0997-53-1321)は、海沿いにあり、宿泊料金は6,000円ほどだ。奄美空港内のレストラン「みなとや」(※B)では、郷土料理の鶏飯(けいはん)が食べられる。鶏飯は、温かいご飯の上に、鶏肉、パパイヤの漬け物、ミカンの皮、シイタケ、のりなどの具を乗せて食べる。名瀬市内には焼酎バーが多数ある。レンタカー、レンタスクーターは、滞在しているホテルで手配可能だ。島内の移動はバスも便利だが、できればレンタカーなどを借りた方がよい。

イベント情報

奄美大島では、年間を通して、ジョギング大会、マラソン大会、トライアスロン大会が数多く開かれている。7月には「灯ろう流し」、8月には「八月踊り」、9月には「油井豊年祭」などが開かれる。

訳注:
(※1:田中一村)たなかいっそん。栃木県生まれの日本画家。奄美大島の自然を愛し、その植物や鳥を鋭い観察と画力で描いた。中央画壇とは一線を画し、清貧の中で画業に励んだ。
(※2:維管束植物)体内に導(脈)管組織を有する植物の総称。

Story and Photo by Stephen Mansfield
J SELECT Magazine, November 2009 掲載
【訳: 関根光宏】