写真家 荒木経惟

 日本で異端児として評判の高い写真家荒木経惟の世界へようこそ。著名な芸術家と初めて対面する時、人は作品から受ける予期していた人物像とは違った印象をしばしば抱くものだ。
荒木経惟に出会った最初の印象は、しかし、彼の作品から受ける印象と同じものであった。67歳の芸術家は、意気軒昂で情熱的で強烈なインパクトがあり、常に生き生きとしていて誰からも好かれそうな好感の持てる印象であった。そして、そこに下町独特の味わい深い魅力が加わる。荒木が持つ下町気質は人をリラックスさせる。そんな素朴な印象の彼が、異論が多く、人によってはきわどい表現とも取れる数々の作品を生み出している。荒木経惟は350冊を超える数の写真集や写真全集を出している。彼の膨大な数の作品は、他の写真家の比ではない。彼はまるで日記を綴るように、身の回りのあらゆるコトやモノを写真に撮る。彼は、いつでもカメラを持ち歩いているのだ。
「結局、写真人生がアタシの人生かも知れないね。」荒木は、個展が開催された下北沢の『LA CAMERA』で話を聞かせてくれた。「写真はアタシにとって、パートナーのようなもの。道標とも言えるかも知れないね。写真と共に歩んでいる気がする。それだけ写真が好きなんだよ」
荒木の作品は、大方の人にとって、好き嫌いがはっきりと分かれるものであろう。多くの良いアート作品がそうであるように、荒木の作品は良い意味で鑑賞者を挑発するのだ。また、彼の作品は世界のそうそうたる数々のギャラリーの壁を飾ってきたが、一方で、作品の中での女性の表現が不愉快な印象を与えるとして、フェミニストの団体から批判されている。実際、荒木の作品を見れば驚くことではないであろう。彼は日本の写真史の中で、最も賞賛された写真家である一方で、最も酷評された写真家の一人であるとも言える。
荒木の作品は、他の写真家では表現できないあらゆる東京の断片を撮っている。無機質な印象の日本の巨大な首都は、彼の手により様々な光の中で即興的に撮られ、そこには、愛とも言うべき痕跡を見てとれる。荒木の撮る東京の作品には、見るものにどことなく懐かしさと親しみやすさを感じさせる。そして、彼の作品の中には、一見、窃視症的とも捉えられなくもない作品もあるが、何よりも、荒木の写真はあらゆるモノやコトのリアリズムを表現している。それは、人間であったり、動物であったり、花や自然であったり、自然界の中に存在する無機的なものであったりする。荒木の風景写真の中でさえ人間的側面を見てとれる。その風景の中に、彼の心の動きを見てとれるのだ。一番に心惹かれた風景であるのだと。
東京でお気に入りの場所を尋ねてみた。「やっぱり、ごちゃごちゃしているところが好きだね。街で言ったら、新しいものと古いものが混ざり合った境目というか。例えば、新宿だと、高層ビル群があって、ゴールデン街や歌舞伎町があるでしょ。そこら辺りの界隈っていうのは、何だかいかがわしいでしょ。要するに、新しい場所と古い場所。その二つが、ある種意地を張っているように見えてね。混ざり合っている所が良いね」
荒木の作品からは、窃視症的とも言うべき見つめることに対する喜びと、ナルシシズム的な側面の両方を見てとれる。私たち鑑賞者は、結局、レンズを通して見つめているのは他でもない荒木経惟自身であることに実は気付いている。それが風景写真であろうとも、荒木自身が、作品を編み出す物語の語り部なのである。だからこそ、彼が作品に撮る身近なモノやコトに私たちは親近感を覚え共感できるのであろう。そして、彼独特の見つめる体験は、そのあまりの独自性がゆえに、人々が生み出す風聞も手伝って、彼をカリスマへと作り上げていったのだ。
荒木の作品を見つめていると、一体どこまでが真実でどこからがフィクションなのかわからなくなってくる。彼は、ラブホテルで数多くの若い女性を写真におさめている。それらは、まるで、情事の前か終わった後のようでもある。多くは緊縛姿できわどいポーズで撮られている。これらの作品が、様々な論争を起こしている。
しかし、荒木は、写真の中のすべてを真実として捉えないでほしいと言う。
「アタシが写真を撮る時、それはアタシと被写体とのコラボレーションなんだよね。でも、それが作品となった時には、それは、アタシと写真を見る人とのコラボレーションなんだよ。写真を見る人は、好きなように解釈すれば良いのだと思うよ。的確にこうだって言い切れるものでもないし。実は、撮ってるものは、本当のことなんだって言うものでもないような気がするしね。曖昧なものだと思うんだよね、写真って」
「例えば、女性を撮るよね。それが、本当にアタシが惚れ込んでしまった結果だなんて言い切れないじゃない。写真を見る人には、どちらかわからないよね。それに関して、見る人がいろいろ思ったり感じたりして、好きに解釈すれば良いって。間違って解釈されても構わないと思ってる。おもしろいのは、写真を見る人の方が、私が気付かないことを見たり感じたりするってことだね。写真を撮ってる時は、その女性のすべてを写せたと思うからね。でも、実は、その女性のすべてを撮ることができていなかったのかも知れない。知らず知らずのうちに、カメラというのは何か真実を捉えているのかも知れないしね。アタシが気付かなかった女性の悪さとかね。それがおもしろいね。写真が上がったら、実は、アタシはもう一人の人になるんだよクロ写真でだーっといくわけだけど、表紙には彼女が亡くなってから一年後に作成されたリトグラフを複写したものにしようと思ってる。未練って言えば未練なんだけどね。結局、未練なんだよ、写真って。何か大切なものを忘れられない時、それがセンチメンタリズムだと思うね」
1972年、荒木は電通を退職し、フリーの写真家としての活動を始める。その後、数多くの写真集が出版され、数え切れない程の個展が開催され、数々の雑誌に写真が掲載された。
1988年、映画でもスライドでもない全く新しい写真表現である『アラキネマ』を初めて開催し、その後も幾度となく開催される。そして、同年、『Aat Room』を設立した。
荒木の活動は国内にとどまらず、海外でもカリスマとして崇められている。それは、「反逆的」写真家としてだけではなく、日本の現代写真を代表する写真家として荒木は海外でも高く評価されている。彼の写真集が世界的にも有名なTaschen(タッシェン)社から発売されていることがそれを証明している。また、写真家Nan Goldin(ナン・ゴールディン)とコラボレートしたり、パリのアーツセンター『Fondation Cartier pour l’Art Contemporain』やロンドンの『Barbican(バービカン・アートギャラリー)』での
『Self・Life・Death(私・生・死)』展の個展開催が荒木の海外での活躍振りを物語っている。『Self・Life・Death(私・生・死)』の名で写真集も発売されている。
2003年夏、ニューヨーク出身の映画監督Travis Klose(トラヴィス・クローゼ)監督により、荒木経惟のドキュメンタリー映画『アラキメンタリ』が撮影された。荒木の仕事振りから夜の街を歩く姿まで、様々な荒木経惟が作品におさめられている。映画監督北野武を始め、写真家の森山大道、そして、アイスランド出身のビョークなど豪華ゲスト陣が出演し、荒木について語っている。ビョークは荒木に対して、その飽くことのないエネルギーに敬意を払い、北野武は、年齢を感じさせずに東京中を遊びまわる荒木に少々嫉妬を覚えながらも次のように語った。
 荒木は心の底から仕事を楽しんでいるね。もしかしたら、俺が楽しむ以上かも知れない。うらやましいね」荒木のカメラとの「情事」は、永遠のものであるようだ。
「将来どうなるかなんてわからないけどさ、何が起ころうとも、写真を撮り続けているね。これだけははっきり言える。世間だとか時代だとか人間だとか、被写体がある限り、絶対に撮り続けるから」
どのような被写体に最も興味があるか尋ねてみた。すると、今一番撮りたいのはビジネスマンだと言う。
「ビジネスマンって、時間や自分の人生やいろんなことに拘束されていて、うちらみたいなニート系とは違うじゃない。実際、どっちも自由ということはないんだけど。だから、その自由のなさが案外同じなんだね。例えばね、丸の内辺りでお昼休みにビジネスマンがばーっとビルから出てくる。まるで、ビルの牢獄から開放されたみたいにさ。7、8人位かたまってさ、信号待ちでダダッて並んでる。そういうのを車の窓から見るとワクワクする。良くわからないけどさ、そこには何かがあるんだよね。前はOLだったけど、今は男性の方に興味があるね。傍観っていうか、客観なんだね」
不撓不屈の精神を持つ荒木経惟は、次にどんな姿を我々に見せてくれるだろうか。
「よく言うことだけど、今夜は君が決めるんだよ」荒木は大きな笑顔で答えてくれた。よく使われるフレーズではある。しかし、決まり台詞が妙に決まっているのだ。年齢的には人生の黄昏時であるにも関わらず、無限の情熱を持つ天才荒木は、我々に畏敬の念を起こさせる。カメラを携えた荒木は、もはや写真界の伝説の人なのである。

Story by Manami Okazaki
J SELECT Magazine, June 2007 掲載
【訳: 青木真由子】