京町家—失われつつある建築の宝庫に新しい命を吹き込む

都京都は、歴史的にも建築学的にも重要な場所である。文化的にも重要な位置を占める京都は、第二次世界大戦で激しい戦火を免れた数少ない都市の一つである。数多くの寺院や神社、石庭、茶室などが美しい形で残され、京都の風景に彩りを添えている。京都の建築物の中でも注目すべきは、京町家である。
簡素な美しさが際立つ木造の京町家は、日本の伝統建築物の代表格と言えよう。石、木、土、竹、紙で作られた京町家は、明治時代(1868-1912)、商人や伝統工芸職人の住居であると同時に仕事場でもあった。
京町家は一時期広く普及したが、今日では老朽化や新しくモダンな建築物にとって代わられ、存亡の危機に曝されている。驚くべきことに、毎年500もの京町家が消滅していっている。しかし、ある保存団体が、失われつつある文化の宝庫に新しい命を吹き込むべく活動を続けている。それは、日本学者のアレックス・カーが設立した株式会社庵である。町家を改装し、古の芸術品である京町家を楽しみたいと願う観光客に広く貸し出している。現在、株式会社庵は、10の町家を保存することに成功した。その多くは、百年以上前に建てられた京町家である。
元々の形状が損なわれないように町家は改装される。町家は親しみを込めて、『うなぎの寝床』と呼ばれている。入口が狭く、奥行きが深いことから、こう呼ばれている。京町家が建てられた当時、建物の正面の間口の広さによって税金が課せられたため、高い税金を払うことから免れられるように、正面の間口を狭くしたとの説がある。正面の間口の幅が広ければ広いほど、法外な税金が課せられたので、町家は入口が狭く奥行きの深い形となったのである。
町家の入口には、2階まで伸びた虫籠窓がある。虫籠窓は、虫かごのように目の細かい格子からなっており、建物の中からは外がはっきりと見えるが、外から中は見えにくい構造となっている。
町家の最盛期の頃、町家の正面にある部屋は、商人や職人にとって商いの場所であった。奥の部屋は住居として使われた。玄関から裏庭までの土間の部分を通り庭という。
建物全体を支える複雑な土台を持つ西洋の建物とは違い、町家の土台は、平らな大きな石によって作られ、天井の高い位置に木の梁が横にはりめぐらされている。これらの梁が天井高く設えられているのは、湿気の多い夏に部屋の空気を循環させ、涼しく過ごせるようにするためである。部屋の床には畳が敷かれ、壁は、砂、藁、粘土で作られた土壁となっている。部屋は、夏の間は簾戸で仕切られ、冬になると襖にとって代わる。町家には、坪庭と呼ばれる二畳程の大きさの中庭がある。坪庭は、静かな美しさを演出してくれるだけでなく、明かり取りとしての役割も果たしてくれる。
株式会社庵が貸し出す10の町家には、面白く神秘的な歴史背景がそれぞれに存在する。その一つは、かつて地元の医者が住居としており、もう一つは、有名な芸者の住まいであった。町家は百年以上も前に建てられたものであるが、その一つに泊まることは、この上なく心地の良い体験となるに違いない。それぞれの町家には、床暖房、ふわふわの布団、エアコン、無線LAN、小さいながらも設備の整ったキッチンなどのアメニティが完備されている。杉あるいは檜で作られた木の風呂や石で作られた風呂からは日本庭園が見渡せ、夜には庭がライトアップされて壮観である。町家周辺の景色は絵のように美しく、京都の伝統文化の世界に身も心も浸ることができる。京都を縦断する鴨川や東山の山々は、活性化された美濃屋町・町家から見渡すことができる。祇園新門前・町家からは、芸者で賑わう祇園の店やレストランへのアクセスが良くて便利だ。
モダンさと快適さを合わせ持つ古き良き町家に泊まることは、日本の伝統文化を直に感じ取ることのできる貴重な機会となることであろう。

Story by Erika Wiseberg
J SELECT Magazine, February 2010 掲載
【訳: 青木真由子】