サヘル•ローズ~その壮絶な半生~

サヘル・ローズの物語は、20年以上前、日本の華やかな舞台の上に立つ今の姿からかけ離れた、イラク国境近くにあるイランの小さなクルド族の村から始まる。1980年代、20世紀史上最も残忍で血なまぐさい戦争がイランとイラクの間で起こっていた。犠牲者の数は、100万人を超えた。どの戦争でも言えることだが、無力な一般市民が軍隊に捕らえられ、悲惨な状況に苦しめられた。サヘルの家族も例外ではなかった。
サヘルが生まれた頃、イラン・イラク戦争はその真っ只中にあった。1988年、両国はついに公式な停戦に合意したが、国境では砲撃と空爆が幾度となく続けられた。不運なことに、サヘルの家族が住む村は、攻撃の標的の中にあった。イラク軍からの攻撃の恐怖に耐えるだけでなく、日々の生活は厳しさと貧しさの中にあった。
食べ物や着る物は限られ、石と乾燥した土で作られた家の中は熱が保たれない為にとても寒く、日々生き抜く為だけで精一杯な状況であった。しかし、困難な状況の中においても、家族から受けた愛情を今でも鮮明に思い出すと、サヘルは語る。
末っ子であったサヘルを、毎晩父親が小さな寝室(兄弟姉妹11人がその部屋で寝ていた)まで抱きかかえて運んでくれた。「今でも、寝かしつけてくれた父の顔を思い出します」サヘルは力強く言った。
しかし、戦争の厳しい現実の中の束の間の幸福さえ、サヘルから奪われることとなった。突然の悲劇は、1989年の夜に起こった。いつものように、サヘルの父親は彼女をベッドに寝かしつけ、おやすみのキスをした。これが、サヘルが父親を見る最後となった。真夜中に村への空爆があり、村全体が壊滅状態となった。救助隊が到着した頃には、瓦礫の中に手足をばらばらにされ黒焦げとなった村人たちの遺体しか発見されなかった。生き延びた村人を探すのは、困難なように思われた。しかし、救助隊がテヘランに戻るよう指令を受けた後、ボランティアとして応援に駆けつけていたフローラという一人の女性(大学で心理学を専攻している学生)が、壊滅された村をもう一度歩こうと決めた。フローラによると、瓦礫の中に奇跡的に咲いていた一輪の青い花を見つけたという。彼女は、そんな場所に力強く咲く花から目が離せなかったと語る。すると、青い花の横に小さな人形の手を見つけた。しかし、フローラがそこに屈みこんで手に触れると、それは人形の手などではないとすぐに気付いた。それは、サヘルの小さな手であった。サヘルは、400人の村人の中の唯一の生存者となった。
その後、サヘルは、体の傷と家族を失った心の傷を回復させる為、数ヶ月間入院した。家族を失い、一人で生きていく人生に慣れる必要もあった。入院中、人生で初めて入浴し、自分の姿を鏡で見た。彼女の村には、入浴する為の水道もなければ、鏡もなかった。サヘルが徐々に回復に向かう中、フローラはしばしば病院を訪れた。しかし、サヘルが退院し孤児院に収容されてから、フローラはサヘルの消息を失ってしまった。

かし、運命のなせる業なのか、二人は一年後に再会することとなる。里親を募集する孤児たちが出演した国営放送のテレビコマーシャルに、サヘルも出演していたのだ。養子を欲しがる親たちは、年齢の低い子供を欲しがる傾向にあった。5歳のサヘルにとって、養親を探すのはすでに難しい状況にあった。テレビコマーシャルを見たフローラは、サヘルを見つけることに成功し、その後は、毎週のように彼女に会いに行った。
毎週フローラに会うことを楽しみにしていたサヘルであったが、その時間は残り少なくなっていた。孤児たちが6歳になると、違う施設に収容されることになっており、6歳になるサヘルにとって、フローラと会う時間は限られていた。この状況からサヘルを救う為、フローラはサヘルを養子にもらうことを決意した。若いことに加え、裕福で伝統に縛られた家族の出身で、一家の名前が国中に知られるフローラにとって、それは決して簡単な決断ではなかった。フローラの両親は、彼女の先進的なものの考え方をあまり快く思っておらず、養子を取ることに関して断固として反対だった。この一件と、その他の考え方の違いから、フローラは両親から縁を切られ、勘当されてしまった。家族から追い出され、何の支援も受けられない中、フローラは、未来の全てを日本に住む婚約者に委ねるしかなかった。1993年、フローラとサヘルは、イランから日本へ飛び立った。
サヘルにとって、新しい生活の始まりと、新しい家族を得る機会となるところであった。しかし、幸福な家族の夢は、フローラの婚約者が3週間の同居の末、二人を捨て去ったことですぐに崩壊してしまった。フローラとサヘルは、外国の地で、ポケットに1万円しかない状態でホームレスとなってしまった。どこにも行く場所はなく、二人は近くの公園で暮らすこととなった。サヘルは、すでに地元の学校に通っていたので、昼間は学校へ行き、学校が終わると公園に戻る生活が始まった。フローラは、近くの工場で働き始めた。雨が降る日には、閉館時間まで近くの公立図書館に身を寄せ、夜は、公園の公衆トイレで雨を凌いだ。近所の住民が二人の悲惨な状況に気付き始め、サヘルの学校の給食室で働く女性が、二人を不憫に思い、手を差し伸べた。この親切な女性は、二人に小さなアパートを探す手助けをしただけでなく、フローラの為にイラン系企業での仕事を探してきてくれた。
二人は、ホームレスの生活から抜け出すことは出来たが、日々の生活はやはり厳しいものであった。日本では外国人である上、貧しい母子家庭であった二人は、全く異なる文化の中で新しい生活をしていくことに大変な苦労をした。しかし、母と娘は、困難に屈せず頑張り通すという固い決意と深い愛情で結ばれていた。このことは、サヘルが中学校に入学した時に、極めて重要な局面を迎えた。彼女は、いじめの標的にされたのだ。いじめは、靴が窓から投げ捨てられたり、階段で投げ飛ばされたりするところまでエスカレートした。彼女の半生を描いた自伝の中で、サヘルは、当時、自殺を考えたこともあったが、思いとどまることが出来たと告白している。「私を育ててくれた母親の愛情があったこと。空爆を受け、全壊した村の最後の生存者であり、家族すべてを失ったということ。そして、なぜこんなにも苦しまなければならないのかわからないけれども、私が生きていることの理由、生きながらえたことの理由が知りたいと思ったことが、私に自殺することを思いとどめさせました」
母親がどれだけ彼女の人生を犠牲にしてサヘルの為に尽くしてくれているのかが、サヘルには痛いほどわかっていた。フローラは、決して困難な状況に文句を言わなかった。彼女は、お手伝いがいる裕福な家庭に生まれ、イランで大学に行く機会もあった。しかし、大学で心理学の博士号を取る夢は、果たされなかった。フローラはいつでもサヘルのことを一番に考えた。サヘルの水泳教室の費用を捻出する為に、一日ツナ缶の半分しか食べずに過ごしたこともあった。サヘルが執筆し、2009年1月に出版された自伝本『戦場から女優へ』(文藝春秋刊)の中で、彼女は、フローラがサヘルに言った言葉を次のように記している。「(中略)自分の生んだ子どもでも、ちゃんとした愛情を与えられない親もいます。親子が断絶している家庭もあります。血のつながりは関係ないと、私は思う。他人同士だからこそ見えてくるものがあって、そこから強い絆が生まれる。私はあなたを生んでいないけれど、ほんとうの親よりもあなたを愛せる自信があります」
フローラのこの言葉が、困難な状況においてもサヘルに生きている意味の答えを与えた。サヘルは、戦争の恐ろしさを伝える責任があると感じただけでなく、日本人に対して養子縁組の大切さと重要性を訴える責任があると感じた。しばしば、日本のように単一民族の国であると、家族の中で血の繋がりがない人がいることに対して、それを恥に思う傾向がある。サヘルは熱意を込めて語った。「私は、このような考え方を変えたいのです。養子縁組は決して恥に思うことでなく、一人の人命を救うことだって出来るのです。日本は平和で戦争状態にありません。一人でも多くの方に養子を取って欲しいと願います。私もいつの日か、養子を取ろうと思っています」彼女のこの言葉は、彼女が各地の大学で講演する時に、繰り返し語られる言葉である。
サヘルの人生は高校に入ると、より良い方向へと変化していった。中学校で受けた酷いいじめから解放され、自分自身が何者であるのか、よりはっきりと理解することが出来るようになった。また、彼女は、母親を経済的に支えることが出来る年齢にもなった。少しでもお金を得て生活を楽にする為、ティッシュ配りなどいろいろなアルバイトをした。この頃、J-WAVEのラジオ番組「Good Morning Tokyo」のレポーターのオーディションを知った。彼女は、オーディションに合格しただけでなく、これがきっかけとなり、芸能界への扉を開いた。2006年、サヘルは、テレビ朝日の「スーパーJチャンネル」の「東京見聞録」というコーナーのレギュラーレポーターに選ばれた。「東京見聞録」では、外国人のレポーターが、日本各地のおすすめスポットをレポートする。彼女がブレークしたのは、日本テレビの「THE・サンデー」の「週刊男前ニュース」というコーナーで、人気ニュースキャスター滝川クリスタルのものまねをしたことに始まる。サヘルが担当した「週刊男前ニュース」の初めての放送が終わると、テレビ局には、彼女が誰であるのかを問い合わせるメールが殺到した。すぐに彼女は、無名の新人からインターネットで最も検索された人となった。
有名になったことで、サヘルは人々から尊敬される女優になるという子供の頃からの夢を追うことになる。「イランにいた少女の時から、私は演じることに強く惹きつけられていました。日本のドラマ『おしん』を見たことも影響しています。私にとって演じることとは、内なる感情を外に向けて出す一つの方法なのです。だから、私は演じたいのです」今は、サヘル・ローズとして日本中に知られる彼女であるが、女優としての成功を願うと共に、自分のルーツを見つめ、いつかイランに孤児院を建てたいと願っている。
故郷についてどう感じているか尋ねた。彼女の答えには、様々な感情が錯綜しているようだった。昨年から、イランのニュースはひっきりなしに伝えられた。特に、論争の的となった大統領選挙があり、続いて大統領選に不満を持った人々が暴動を起こしたからだ。サヘルは、イランのニュースを見て心を痛めていると語った。「故郷で苦しんでいる人々がいるのに、私には何も出来ないもどかしさがあります。イランの民衆の声が世界中に届き、国がよい方向に向かっていってくれることを切に願います。また、イランには核兵器とテロのイメージがありますが、世界中の人々が、イランの良い面にも目を向けてくれたら嬉しいです。日本のように、イランには古くからの文化とたくさんの世界遺産があります。キャビアやサフランなどの珍味は、もともとイランが原産なのです」
壮絶な人生を潜り抜け、今では舞台やテレビでその上品で美しい姿を目にすることが出来るサヘルであるが、戦場を生き延び、不屈の精神を持った彼女が待ち受ける未来は明るく照らされたものとなることであろう。

Story by Erika Wiseberg
J SELECT Magazine, November 20009 掲載
【訳: 青木真由子】