中村獅童、そのただならぬ魅力

頭の天辺からつま先までを黒い衣装に身を包み、中村獅童は颯爽と姿を現した。その場にいた全員が、彼に視線を奪われて離せない。俳優、中村獅童には何かがある。私たちを捉えて離さない、何かが。

それは、洗練された衣装の上に、さらりと羽織られた飾り気のないジャケットのせいであろうか。それとも、今まさにキャットウォークから飛び降りたかのような、圧倒される程の均整のとれた出で立ちのためであろうか。薄明かりの部屋に浮かぶ、大きな体格を想像させる彼の影のせいであろうか。それが何であろうとも、中村獅童には俳優として、言葉では言い表せない何かがあるのだ。

驚くことに、彼は有名になることに興味がない。

「有名人であることは、私にとってはどうでもよいことです。」目黒雅叙園の個室に設えられた螺鈿細工が施されたテーブル席に座り、中村獅童は語った。「良い役者になりたい。ただ、それだけです。」

1972年、一流の歌舞伎役者の家に生まれた中村獅童は、しきたりのある歌舞伎の世界から銀幕の世界へと軽やかに飛び出した稀有な俳優の一人と言えるであろう。

実際、中村獅童の叔父にあたる俳優の中村錦之介(萬屋錦之介)は、映画と歌舞伎の二つの世界で活躍した。その活躍振りは素晴らしく、数々の賞を受賞している。映画『宮本武蔵』の当たり役でも知られるように、中村錦之介は1954年の映画デビューから約40年に渡って映画俳優としての成功を築き上げていった。当時、歌舞伎役者が映画俳優として活躍することは、今以上に大変珍しいことであった。

「叔父の時代に、歌舞伎役者であると同時に映画俳優として活躍することは、とても珍しいことでした。今以上に、歌舞伎界と映画界の境界がはっきりしていたのです。」

歌舞伎の世界は、幼年時代の中村獅童にとても強いインパクトを与えたようだ。彼は9歳の若さで初舞台を踏んだ。

「幼い頃、家族が歌舞伎を見に連れて行ってくれました。特に、よく祖母に連れられ舞台を見続けるうちに、自然と自分も舞台に立ちたいと思うようになりました。」

歌舞伎の家に生まれ、叔父が有名な映画俳優であったとはいえ、それが俳優としての将来を約束するものではなかった。彼は常に俳優としての道を究めることを追い求め、大学では演劇を専攻した。俳優以外に自分が進むべき道はないと思うほどであったという。

俳優として駆け出しの頃、必ずしも運が彼に味方をしていた訳ではなかった。20代の頃は、わずかの役が回ってきただけであった。いずれも難しい役どころであった。今の活動が本当に将来実を結ぶのか、俳優としての先行きが見えなくなってきたある時、中村獅童は自らの手で行動を起こすことを決意する。

振り返れば、それは俳優としての中村獅童の重要な転換期であったと言えるであろう。彼は、もはや失うものは何もないと感じ、映画『ピンポン』のオーディションを受ける決意をした。

「当時、私は28、9歳でした。自らの力で前に進まなければ、何も起こることはないと思いました。オーディションを受けるチャンスを掴み、会場へ向かいました。」

その後の活躍は、大変目覚ましいものである。『ピンポン』では対抗相手を常に見下す、ピンポンの全国覇者であるドラゴン役を演じた。この映画での演技が観客を魅了し、広く認められ、2003年日本アカデミー賞にて新人俳優賞を受賞した。映画界の中で、一気に脚光を集めることとなった。

その後、出演した映画『いま、会いにゆきます』が大ヒットし、ヒロイン役であった竹内結子と結婚した。2005年には戦争アクション映画『男たちの大和/YAMATO』、そしてサスペンス映画『隣人13号』への出演を果たす。その後、ロニー・ユー監督の『スピリッツ』に柔道のチャンピオン役でジェット・リーと初共演し、同時に初のハリウッド進出を果たす(英題は『Fearless』)。

中村獅童の俳優としての類稀な能力とその多才さは、幼年時代の精力的な歌舞伎の稽古によるところが大きいようだ。通常、歌舞伎の世界では、4、5歳の頃から稽古を始める。伝統的な役から現代的なものまで、幅広く様々な役をこなせるようになることが求められる。これらの役には、女形ももちろん含まれる。

ここ最近で最も注目を集めているのが、クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』への出演である(英題は『Red Sun, Black Sand』)。『硫黄島からの手紙』では、第二次世界大戦の日本軍と米軍との壮絶な戦いを描いている。また、ハリウッド映画での活躍が目覚ましい俳優、渡辺謙が主演する。

海外で撮影に携わることの難しさと挑戦することの意味について尋ねてみた。大変洞察力のある回答が返ってきた。

「英語が得意とは言えないので、言葉の問題はありました。でも、もの創りという意味において、そのコンセプトはアメリカでも日本でも不変だと思っています。」

俳優としても監督としても尊敬するイーストウッド監督の映画に参加し、中村獅童は喜びを隠し切れない様子であった。イーストウッド監督と仕事を共にして最も難しかったことは、監督独特の撮影手法であったという。

「リハーサルをほとんどしないとは聞いていましたが、まさにその通りでした。始めのうち、セットはとても静かで、一体いつ撮影が始まるかと思っていると、すでに本番は始まっていることも何度もありました。リハーサルなしで本番に臨むことは少し不安でしたし、緊張がさらに高まりました。でも、イーストウッド監督の映画に出演出来たことは、大変貴重な経験となりました。多くのことを学びました。」

映画やテレビでの成功が、歌舞伎の舞台からの幅広い役柄のオファーへとつながった。この6月、三越劇場で近松門左衛門原作の『女殺油地獄』が上演された。中村獅童は油売りの悪党、河内屋与兵衛を演じた。近松門左衛門は、江戸時代を代表する劇作家である。中村獅童は近松門左衛門のことを「日本のシェイクスピア」であると評した。日本文学に造詣の深い人であれば、誰もが近松門左衛門を崇敬する。(『女殺油地獄』やその他の近松門左衛門作品は、ドナルド・キーンの素晴らしい英訳で綴る、Major Plays of Chikamatsuを参照下さい。)また、この10月に、新橋演舞場にて『獅童流 森の石松』が上演されることが決定した。幕末期に活躍した、荒くれだが義理人情に厚い侠客を演じる。

市川海老蔵のような一流の歌舞伎一家出身の俳優は、歌舞伎のしきたりに倣いながらも、テレビや映画等で様々な役柄を演じ活躍している。400年の歴史と伝統ある歌舞伎を継承することが求められる歌舞伎役者にとって、テレビや映画への進出は新しい試みであり、野心に燃える役者にとって、未知の世界への扉である。歌舞伎は、変遷しつつあるのだろうか。

「お客様に広く日本の美と伝統ある舞台を知ってもらい、若い劇作家がもっと歌舞伎の戯曲を書くことに挑戦していくことは、私たち若い世代の責務であると思います。でも、一番大切なことは、お客様に私たちの舞台を楽しんでいただき、満足していただくということです。」

歌舞伎の新しい挑戦は、若い世代に限ったことではない。坂東玉三郎などのベテランの歌舞伎役者も、若い役者同様、歌舞伎の伝統的スタイルに縛られない自由な発想のもとで、様々な試みに挑戦している。今年の5月と6月には、世田谷パブリックシアターにおいて、坂東玉三郎演出による『アマテラス』が上演された。玉三郎と佐渡ヶ島出身の和太鼓集団「鼓童」の夢の共演が実現し、玉三郎演じるアマテラスの息を飲むほどの美しさと艶やかさが印象的であった。

今や国内の舞台や映画等の出演にとどまらず、海外作品にも出演し、活躍する中村獅童。一体どのようにプライベートの時間を確保しているのだろうか。昨年の11月には、女優竹内結子との間に長男が誕生した。彼はリラックスした様子で、「買い物が好きで、ロサンゼルスですることが多いです。」と言った。ロスの気候の良さに惹きつけられるそうだ。

息子について、そして、父親としての自分について語る時、中村獅童の優しさと繊細な面がたちまち顔を覗かせた。父親としての責任感は、人生の様々な局面で、今までとは違ったものの見方を彼に与えてくれたという。特に、出演した戦争映画『男たちの大和/YAMATO』や『硫黄島からの手紙』に想いを馳せる時、父親としての責任感と父親となったことがもたらしてくれたものについて、強く感じるという。

「父親になることは不思議なことです。今まで当たり前だと気が付かなかったことについて、気付かせてくれるのですから。例えば、子供が生まれる前は、戦争映画の撮影に臨んでも、日本兵が家族を残して戦争へ行くのだと、実際に起こった一つの出来事としてしか捉えられませんでした。でも、息子が生まれ、子供を授かることの素晴らしさを知った今、家族を残して戦争に行かなければならなかった兵士について、より思いを深くするようになりました。」

我が子が生まれた後というのは、ただ映画を観るという場合においても、その内容がそれ以前に観た時とは違った視点で捉えられるという。

「例えば、男の子と両親の別れのシーンで、仮にカメラが子役の男の子にフォーカスをしていても、その背後に両親からの別れの言葉が聞こえたら、子どもよりも両親の方に注目してしまうでしょう。この両親は子供にどんな言葉を投げかけてあげるのか、声のトーンはどうなのか。この両親が映画の中で目立たない役柄であったとしても、両親の気持ちへ想いを馳せていることでしょう。最近気が付きましたが、そんなことについて敏感になってきているようです。」

中村獅童のフランクでオープンな物腰は、実にさわやかである。彼の夢は、出来る限り多様な役柄を数多くこなし、俳優としての新しい境地を開拓していくことである。今では国内外を問わず、映画プロデューサーや舞台演出家が彼を次期作品に出演させるべく、たくさんオファーが舞い込んでいる。夢の実現はそう遠くない話のようだ。

400年の歴史と文化の財産である歌舞伎界から離れていく若い役者たちの最近の動向は、伝統主義者の非難の標的にされる傾向にあるようだ。生涯に渡り歌舞伎に関わっていくのに必要不可欠な責任感と不屈の精神を備えていないとして、若い役者は伝統主義者から見下されている。しかし、そのような批判は、歌舞伎にも、それ以外の分野にも、同じように情熱を持って携わる中村獅童にとっては無縁であるようだ。現代の俳優は昔とは違い、使う側の意向が色濃く反映される傾向にある。次の給料日までにわずかなギャラしか得ることが出来ない時に、その他の活動を制限することは大変過酷なことである。歌舞伎の世界で役者として30年40年の経験を積んだとしても、誰もが市川團十郎や坂東玉三郎のようなスターになれるとは限らないのだ。

最近まで、歌舞伎を観に来る客数は減少傾向にあったが、中村獅童のような若い役者は、歌舞伎人気の不振を払いのける天からの賜物と言えるであろう。若い世代の歌舞伎役者のテレビや映画への露出は増加傾向にあり、歌舞伎へ足を運ぶ人々も増えている。念入りな舞台セットと高価な刺繍の施された衣装を使用する歌舞伎において、劇場の空席は避けたいところである。中村獅童のような人気俳優のキャスティングは、それまで歌舞伎にまったく興味のなかった人々の集客にもつながっている。特に歌舞伎は年齢や国籍、性別など、幅広い層の観客を想定して創り上げているという点において、大変ユニークな試みをしている。

中村獅童には、確かに何かがある。なぜなら、人々が歌舞伎の虜になり、舞台に戻りつつあるのは彼によるところが大きいからだ。歌舞伎の将来にとって、大変喜ばしいことである。

Story by Alicia Kirby
From J SELECT Magazine, August 2006
[翻訳:青木真由子]