国際都市・神戸

神戸では、田んぼのある風景を目にすることはあまり多くない。海に面した細長い市街地をもつ神戸は、昔から港町として整備され、港につきものの波止場や税関、石畳の広場、倉庫などがつくられてきたからだ。
外国人居留地ができるまで、神戸は寒村だった。神戸港は、朝鮮半島からの使者には「務古(むこ)」という名で知られ、宋の時代の中国の商人たちのあいだでは「大輪田(おおわだ)」という名で知られていた。傀儡(かいらい)天皇だった安徳帝の時代には、京都から神戸に一時的に遷都が行われた。かつて、この辺り一帯の干潟には、いくつかのひなびた神社があり、その周辺は「神の扉」を意味する神戸(かんべ)と呼ばれていた。1868年、測深調査によって神戸の港が水深の深い良港であることが判明すると、外国船が寄港するようになった。外国人居留地に居住する外国人が増えるにしたがって、神戸には新しい生活様式が持ち込まれた。1871年には、早くもサッカーと牛肉が登場している。1896年には、神戸港ではじめて映画が上映された。また、1903年にはイギリス人が設計した日本初のゴルフコースが完成した。
神戸の裕福な外国人家庭は、北野天満宮の山すその、松が青々と生い茂る丘の中腹に好んで居を構えた。イギリスの建築家アレクサンダー・ネルソン・ハンセルも、神戸で暮らした外国人の一人だった。1890年から30年近くの年月を神戸で過ごしたハンセルは、住宅のデザインや建築に携わり、優美な作品を残した。その多くは、緑にあふれ、坂の多い北野地区に今でも残されている。
主として裕福な商人や宣教師たちの邸宅として建てられたこれらの住宅は、建築主の好みと、同じものは二度とつくらないというハンセルのこだわりを反映して、折衷様式で建てられた。たとえばバジャージ邸(ペルシャ館)には、編み枝細工の上に漆喰でアラベスク模様を描いた三角形の妻壁(切妻造りなどの妻側の壁)が設けられた。また、ハンター邸には東南アジア産の最高級の硬木が用いられた。1915年に完成した風見鶏の館
(トーマス邸)には、尖塔(頂部がとがった形をした塔)が付属している。そのほかにも、ジョージ王朝様式、ムーア様式、アン女王様式、木造のヴィクトリア朝様式、北米風の下見板張りの住宅など、さまざまな様式の住宅が建てられた。こうした住宅に見られる多角形のドーム型屋根、円柱で支えられた破風付き玄関、緑色の木製雨戸、彫刻がほどこされた破風などは、神戸の波止場で働く日雇い労働者たちの生活とはかけ離れたものだった。
こうした邸宅の大部分は、多くの人の命を奪い、建築物にも壊滅的な被害をもたらした1995年の阪神・淡路大震災後、ていねいに修復が行われた。地震による心理的なダメージは計り知れず、経済面でも困難な状況が続いているが、なにも知らずにこの地を訪れた人は、地震の痕跡に気付かないかもしれない。神戸はまさに、日本における再生・再建の象徴なのだといえる。
昔から神戸は、外国人が暮らしやすい土地柄だと言われている。作家のニコス・カザンザキスは次のように述べている。「神戸という活気のある街にいると、気分が沈むことはない。世界中を旅しながら見聞を広めることがわたしの楽しみなのだが、神戸ではいろいろな経験ができるからだ」。1894年に英字新聞「神戸クロニクル」の記者として神戸に移り住んだラフカディオ・ハーンは、神戸での生活は「半分、西洋での生活に戻ったようなものだ」と語っている。中国人、朝鮮人、白人、そして東方正教会やユダヤ教会、トルコ系のイスラム寺院を離れたユダヤ系ロシア人やトルコ人などが、途切れることなく神戸にやってきた。こうした移住者たちの子孫は今ではわずかしか残っていないが、近年、インド人、パキスタン人、バングラデシュ人の流入が増えたことによって、神戸の国際的な雰囲気が保たれている。1986年にはインド系の人たちの手によって、インド産の良質な白大理石を使った美しいジャイナ教寺院が建立されている。
神戸における文化的折衷主義は、食べ物によくあらわれている。神戸を代表する食べ物としては、高価だが霜降り肉で有名な神戸牛があげられる。また、神戸には日本でも指折りの南アジア料理店や、上質なフランス料理店・イタリア料理店があり、新鮮な魚料理も食べられる。それほど規模は大きくないものの、華やかな中華街・南京町では、古き良き広東料理をひととおり楽しむことができる。ちょっとしたお菓子や点心、トロピカルフルーツのジュースなどを売る屋台も多数ある。
全長が3キロメートルにも満たない神戸の中心部は、歩いて見て回ることができる。神戸には、市立博物館、神戸海洋博物館、メリケンパーク、北野、南京町、神戸港周辺、六甲アイランドなど、ぜひ訪れてみたい観光スポットもあるものの、神戸という街に特有のゆったりとした雰囲気、異国情緒を漂わせる独特の雰囲気こそが、特筆に価する特徴だといえる。
汚らしく散乱するがらくたのような物や、戦後に現代的だともてはやされて盛んに建設された貧相な姿の建物を取り去ってしまえば、日本の大半の町には、歴史的に重要なもの、日本文化の本質のようなものが、その中心部に隠されているのがわかる。そうした場所を探し出すことは、ある種の冒険だといえる。この作業は結果的には多くのものを得ることができるのだが、根気のいる作業であり、こうした冒険を行う者に襲いかかる、目障りで不愉快な人工物に対して、ある種の洗練された鈍感さを発揮することが求められる。そうした場所──ひと目見ただけではわからないが、日本文化の本質を感じることができる場所──の一つが、神戸からわずか30分圏内にある有馬温泉である。有馬温泉は六甲山地の北側、三つの川が合流する緑に覆われた谷間に位置している。だが、最初の印象はあまり良いとはいえない。鉄筋コンクリートの巨大なホテルが、まるでダムの壁のように目の前に立ちはだかって、視界をさえぎっているのだ。さらに、ホテルの客引きが通行人にしつこくつきまとい、駐車場の係員が到着したばかりのツアーバスに向かって大声を張り上げている。
だが、有馬温泉の歴史は、その源泉と同じように深い。日本の首都として栄えた奈良の都が8世紀に誕生する以前から、有馬温泉の存在は知られていた。つまり、1000年以上ものあいだ、訪問客を楽しませてきたのだ。豊臣秀吉とその正室・ねねが、茶の湯の宗匠・千利休を伴ってこの地を頻繁に訪れて以降、有馬の人気はあらためて高まった。秀吉の側近、侍女、護衛の兵士、易者、料理人たちも、牛車や駕籠に乗って一緒にやってきたはずだ。最近では、小説家の谷崎潤一郎が、頻繁に有馬温泉を訪れ、昔ながらの旅館に繰り返し滞在していたことが知られている。
有馬温泉の泉質は、大きく二つに分けられる。一つは透明な「銀泉」、もう一つは鉄分が多く、さび色をした
「金泉」である。神経痛、皮膚病、婦人病に効果があるとされている有馬の湯だが、とくに胃腸病によく効くといわれている。観光案内所で聞くと、日帰りの入浴なら有馬温泉会館がおすすめだという。駅近くにある同会館は、年金生活を送る老人たちが、便秘や消化器系の持病解消のために通っている。景色を眺めながら温泉につかりたいのなら、かんぽの宿がおすすめだ。駅から10分ほど離れた温泉神社の近くにあり、山の景色を楽しめる。有馬温泉に昔から伝わる名物に、炭酸せんべいがある。低カロリーのせんべいで、有馬温泉の炭酸泉水を加えてつくられている。また、古泉閣という旅館が経営するレストラン・慶月では、洗練された料理が楽しめる。3種類の精進料理コースがあり、一番シンプルなコースでも、16品もの料理が出てくる。
有馬温泉のなかでもとくに古い歴史をもち、文化的伝統を感じさせるのは、温泉寺がある地区だ。この地区は秀吉との結びつきが強い。有馬温泉の守護神がまつられている湯泉神社は、杉林と梅林に囲まれている。隣接する二つの寺、温泉寺と極楽寺には仏像をまつる豪華な須弥壇があり、層状になった本堂の屋根や、境内の地蔵像などが古雅な雰囲気を醸し出している。秀吉の正室・ねねの別邸跡は、現在は念仏寺になっている。ひなびた雰囲気をもつ寺で、その優美な庭園にはサラソウジュ(娑羅双樹)の古木がある。6月に訪れると、サラソウジュの白い花が、コケの上に散る様子を鑑賞できる。
曲がりくねった細い道沿いに、古い木造の家が軒を連ね、「ねがい坂」や「炭酸坂」という名前の坂道があるこの地区には、「有馬の人形筆」と呼ばれる土産物を扱う民芸品店が多数ある。1000年以上前からつくられている土産物で、筆の中には小さな人形が隠されている。文字を書こうと筆をもつと、人形が顔を出す仕掛けになっている。そのほか、「有馬籠」という工芸品が、16世紀ごろからつくり続けられている。煤竹を使ったり漆を塗ったりしたものは、有馬籠の中でもとくに高価で、茶道や華道で珍重されている。
有馬温泉の中でも歴史あるこの地区を代表する宿「ホテル花小宿」は、優雅で上品な宿だ。湯泉神社に続く長い階段の登り口近くにあり、戦前には裕福な外国人の定宿となっていた。外国人居留区に住んでいた外国人たちが、湿度の高い夏の間、避暑に訪れていたのだ。有馬温泉は、シムラー、ウーティーといった大英帝国時代のインドのヒルステーション(避暑地)や、フランス植民地時代にカンボジアのカルダモン山脈にあった避暑地と同じく、少なくともそうする余裕がある人たちにとって、蒸し暑い低地での生活からの、しばしの避難場所となっていたようだ。

Story and photos by Stephen Mansfield
J SELECT Magazine, May 2010 掲載
【訳: 関根光宏】