デビット スタンリー・ヒューエット: 美の驚異

ある部屋にたたずむ一人のアーティストをどのように見定めよう。スケッチブックやベレー帽(ベレー帽というのは半分冗談である)などのヒントはともかく、彼は一人ジョークにクスクス笑っているかも知れない。そして、そのジョークは、左脳に長けた理論主義者には通じない。あるいは、あるレストランに入ってデザートを食べる時、見た目は優雅でありながらも使い勝手の悪い容器を見て(しかも、その使い勝手の悪さから、デザートの最後の一口が食べられない)、そのデザインの悪さを指摘することだろう。
デビット スタンリー・ヒューエットを通して見ると、世界はこのように見える。彼は、東京を拠点に活動する画家で陶芸家である。ヒューエットはアメリカの東海岸で、画家である自由奔放な母親に育てられた。彼女は、アトリエを持たない陶芸家たちに自宅の車庫を開放していた。そのため、ヒューエットは幼い頃からアートに接することとなった。彼は、小学校に上がる前から絵を描き始め、数年後に陶芸も始めた。アートは常に彼のそばにあり、彼に影響を与えてきた。
数十年に渡り、研鑽を重ね、経験を積み、彼の才能は飛躍的に伸びた。しかし、ヒューエットの能力のいくつかは、生まれながらに備わっているものだと言わざるを得ない。例えば、彼に最近会った人について描写するように言うとしよう。彼は、画用紙を白紙で出してくるだろう。しかし、彼がいた時間や空間について、例えば、カーテンの色であったり、空気の匂いであったりするものは、驚くほどの描写力で説明をする。ヒューエットは言う。「私が感じ取るすべては、匂いや色や残像なのです。普通の人では身につけられないと思います。母からの遺伝かも知れません」このことは、ヒューエットのものに対する見方を普通の人とは少し違ったものにしているかも知れない。彼はいつでも、世界の美を細かなところまで見透かしてしまうのだ。例えば、それは、神社の扉の金色の取手であったり、古い納屋の木であったりする。
ヒューエットの日本との出会いは、やはり幼い頃にある。中学の頃に空手を始めてから日本に興味を抱くようになり、大学まで日本語と日本文化を学んだ。大学在学中に、北海道大学に一年間留学し、卒業後、東京を拠点に活動する前衛的彫刻家や陶芸家の川村幸子の下で学んだ。
作品制作に意欲的であったヒューエットは、日本にある素材に目を向けた。川村幸子の下で陶芸を学びながら、彼は、和紙や墨を使って制作するようになる。若く無名の外国人であったため、日本で個展を開くのは不可能のように思われた。しかし、彼は諦めなかった。「30以上のギャラリーに、作品のスライドを持って行きましたが、どこへ行っても断られるばかりでした。断られたのは、作品のレベルにあったのではなく、無名の外国人であったからだと思っています」吉祥寺にあるリベスト・ギャラリー・ソーが、ついに彼にチャンスを与えてくれた。初個展は大盛況に終わり、展示した19作品のうち17作品が売れた。個展を見に訪れていたあるインテリア・デザイナーが彼の作品に目を止め、帝国ホテルのコンペに出品することが決まった。そのコンペで優勝し、108作品を帝国ホテルのために制作する契約を交わした。夜、英会話学校で英語を教えながら作品制作に取り組んでいたヒューエットにとって、それは願ってもないことであった。
この成功の後、ヒューエットは少し遠回りをすることになる。彼は冗談交じりに言った。「どんな良いアーティストもすることだよ」彼は、アメリカ海軍に入隊したのだ。その後、輸入業を起こし、日本語雑誌『Takara』をボストン地区で発行した。2000年に再来日し、我々のインタビューが行われた日は、ちょうど再来日してから10年目の日であった。
この10年間は、Bunkamura Galleryや高島屋での個展や高級ホテルや企業との契約など成功の日々であった。話はこればかりではない。彼は、個展開催やホテル、企業のための作品制作と同時に、証券マンとしても働いていたのだ。証券マンとアートの世界はあまり共通項がないが、二つを同時にこなすことは、彼の成功にとって必要なことであった。「ビジネスをしながら、クリエイティブでもいられたことは、幸運なことでした。多くのアーティストはあまり好みませんが、私はアートの世界のビジネスも楽しんでいます」
鋭いビジネスセンスを持つことは、商業的にもアーティストとしての彼を成功へと導いた。彼の才能は、多くのコレクター、ギャラリスト、インテリア・デザイナーの知るところとなった。彼の作品は、グラフィック的で、繰り返す模様が特徴である。このことは、バイヤーにとって、どのような作品が仕上がってくるのか想像しやすいので、彼と契約を結ぶ時に役に立つ。
彼の作品にある繰り返す模様の特徴は、意外なところに扉を開いた。2008年、高島屋で個展が開かれた際、ギャラリーのマネージャーがヒューエットに内緒で帯のデザインのコンペに出品し、優勝したのだ。彼は思い出しながら話す。「ある日、そのマネージャーが電話してきて、『コンペに優勝したよ』と言うのです。私は、『何のコンペ?!』と聞き返しました」織物の世界への進出は、成功を遂げた。(ヒューエットの帯は、その夏、高島屋でトップセールスを記録した)さらに、高島屋から、男性用と女性用の浴衣のデザインを依頼された。高島屋はヒューエットとのコラボレーションを大変喜ばしく思っており、2011年と2012年、全国の主要な都市で個展を開くことを打診した。
この4年間、ヒューエットは、彼の作品『武士道』シリーズに深く心酔して、制作に取り組んでいる。「多くの方は、私の『武士道』シリーズの作品を前衛芸術や美術ではなく、デザインと呼びますが、私もその点では異論はありません」『武士道』シリーズの作品は、濃い茶色や黒の背景に、金色の葉を表現した太い直線が描かれている。そこに少し赤が加わっている。
『武士道』シリーズは、彼の身近な人に影響を受けて始めた。彼の奥さんである。彼女は、厳格な神道の家の生まれである。神道の教えは、しばしば
「武士の教典」と称されるが、ヒューエットは、「人生の教典」だと言う。神道と海軍や空手の経験を受けて、彼は、交錯する神道の教えをどのように絵に表現しようかと考えた。強い線、暗い色は軍や武道を表し、赤い色は、血や行動、情熱を表す。金色は、大阪にある住吉大社を訪れた際に、神殿の扉の金色の装飾にヒントを得た。しかし、金色の色に着目したのは、サントリー美術館で屏風の展覧会を見た時である。「金色の葉の色が褪せた感じがとても美しく、長い年月を思わせました。武士道の教えにある長寿を敬う気持ちに歴史を感じて、私なりに作品に再構成しました。それは、一時的な考えではなく、日本人の遺伝子に長年組み込まれてきたことだと思います」
4年が経過し、彼は今、武士道の世界とどのように向き合っているのだろうか。彼の創造力は衰えることを知らない。「数百個のアイデアが頭の中にあります」今は、「幸せに感じることを描く」ことに意識を集中させる時期だと言う。そして、大きな制約を設けた中で制作に挑戦するのが楽しいと言う。「絵の具の数を絞った中から色を選ぶ簡素さが好きです。少ない素材で、どれだけキャンバスを輝かせるかを考えるのが楽しくてなりません」断片のようなアイデアからイメージを捻り出すことは、さらなるひらめきを与えると言う。今では、キャンバスの大きさは以前とくらべると大きくなっていっている。
商業的にも成功し、未知なる美の世界に没頭しているにも関わらず、彼は強く地に足を付けた印象だった。これは、様々なチャリティー活動をしているおかげかも知れないと彼は言う。
「助けを必要としている人々がいることを肝に銘じていることは、大切なことだと思います」
ヒューエットは、2008年より、国際難民支援会が主催する「食卓の芸術チャリティー展示会」に参加している。その初期の活動に、大使の奥さんが高級ホテルで披露したテーブル・セッティングがある。テーブルは、陶器や花で綺麗に飾られた。数十年に渡り、活動がアート主体となり、本来の意味が失われつつあった。そこで、ヒューエットは参加者に、世界から忘れ去られた人々を助けるという国際難民支援会の本当の趣旨を伝えようと立ち上がった。昨年、ポーカーゲームで使うプラスチックのチップ1200個に、飢餓状態にある子供たちの写真を埋め込んだ作品を発表した。ポーカーゲームのテーブルにそれらのチップを並べて展示した。「遠くから見ると、アールデコ調の作品ですが、近づいてみると、『わあ、なんだ、これは。何かちがう』という気持ちにさせます」このような状況で、飢餓状態にある子供たちの写真を見るのは、居心地が悪く、不謹慎と思う向きもいるかも知れない。しかし、大方の見方は、好意的な評価であった。アーティストとして、否定的な意見も好意的な意見も大歓迎だと彼は言う。一番悪いのは、見た者に、何の感慨も起こさせないことだと言う。
「仮に、私の作品が嫌いだとしても、何かを考えるきっかけを与えたのだとしたら、大成功だと思います」
驚くべきことに、作品が公に発表される以前の東京での日々が、最も良い時期であったと言う。外からの情報が少ない時の方が、自由に制作ができたと言う。「描きたいことを好きなように描いていたので、創造的に自由でした。今でも、創造的だと思いますが、ある時点に到達すると、アーティストは自意識過剰になってしまうと思うのです。それで、さらに年月を重ねると、今度は人間的に丸くなります」
アーティストを目指す人について、ヒューエットは、最初の個展開催にこぎ着けるまで日本は厳しい場所ではあるが、特に外国人に対しては、何を制作するのかが大切なのであって、出身地は関係ないと語った。日本人と外国人のバイヤーの大きな違いについて、興味深いことを語ってくれた。「日本人のバイヤーは、私のことを知らない場合、レジュメを見て興味を抱き、作品を買って行きます。外国人のバイヤーは、作品を見て、気に入れば買います。そして、作品を購入した後に、
『あれは、誰だ?』となります」国籍の違いや作品へのアプローチの違いに差はあっても、ヒューエットの作品は見る者を惹きつけてやまない。
これから数年間は、高島屋での展覧会ツアーの準備に忙しくなりそうだ。そして、まだはっきりとは決まっていないそうだが、ニューヨークを拠点とするデザイナーと、東洋と西洋の美が衝突したような服のコラボレーションを考えているそうだ。テキスタイル
(織物)との新たな出会いを発見し、今後もそれを発展させていきたいと考えている。ニューヨークやロンドンでの個展の開催の夢もある。それまで、彼は、企業の役員室やホテルのロビーでスケッチブックを片手に(ベレー帽は抜きで)、あらゆるものから刺激と喜びを受け、思いも寄らない作品を生み出し続けることであろう。

Story by Melissa Feineman
J SELECT Magazine, April 2010 掲載
【訳: 青木真由子】