謝恩会 ある外国人の母親の場合

ジャスミン(仮名)は、ゴリラのフェイクファー(人工毛皮)に埋もれるようにして、自宅のリビング・ルームの床に座っていた。それから二度、くしゃみをした。でも本当は、泣きたい気分だった。しわくちゃになった一枚の楽譜を右手で握り締め、もう一方の手には、完成とは程遠いゴリラの衣装をつかんでいた。ジャスミンは一週間以内にリコーダー(縦笛)で曲を演奏しなければならなかったのだ。でも、彼女は楽譜の読み方を知らなかった。それに加えて、息子のためにゴリラの衣装も縫わなければならなかった。配布された型紙を当てて、なんとか裁断までは済ませた。ところが、そのほかの雑事で疲労困憊してしまい、ミシンを箱から出して、面倒な使い方を覚えるところまで達していなかった。両方を最後までやり遂げるか、「悪い母親」の烙印を押されるか、選択肢は二つに一つだった。

ジャスミンはオーストラリア出身で、経済学の学位をもち、以前は財務の仕事をしていた。日本人男性と結婚して東京に引っ越してきてからは、日本語を熱心に学び、日本の文化にも慣れようとがんばってきた。日本的な伝統に従って、出産後は「良き母」になるべく仕事もやめた。息子が3歳になって幼稚園に入学すると、少しは自由な時間をもてるのではないかと期待した。ところが実際は、日本で幼稚園児の母親になるという、人生最大の課題に直面してしまったのだ。
ジャスミンの息子は、80年の歴史がある幼稚園に入学した。3歳のときの性格は100歳になっても変わらない(=「三つ子の魂、百まで」)ので、子供は小さいうちから心と体を鍛えておかなければならない、というのが創設者の信念だった。冬になると子供たちは、免疫力を高めるためと称して、下着と短パンだけで走らされた。教室内では詰め込み教育が行われ、複雑な文字で書かれた有名なことわざを、小さな脳で覚え込まなければならなかった。植物や小動物の世話をすることで、自然を大切にする心も学ぶ。4日間のキャンプ旅行を通して──小学校に入る前の5歳の子供たちが──自然やサバイバル術について学ばされるのだ。

ジャスミンは、この幼稚園を選んだ理由を説明してくれた。「近隣にある幼稚園はどこも、外面的なことばかりにこだわっていて、軽薄な印象しかもてなかった。豪華な制服や最新の遊び道具をそろえていたけれど、男の子は貧弱な感じがしたし、女の子も品のある感じがしなかった。公立幼稚園に通っている子供たちは元気いっぱいに遊んでいるけれど、公立の幼稚園は年度内に5歳になる子供しか通えない。だからこの幼稚園を選んだのよ。教育方針がちょっと極端ではあるけれど、子供たちは疲れを知らないから大丈夫だと思ったの。子供って、すぐに何かに夢中になって、新しいことを受け入れるのが得意でしょ。まだあんなに小さいのに、みんなで一緒に遊んだり、作業したりするのが上手なのよ」。幼稚園からは、親も行事に積極的に参加するようにと言われた。でも、息子が幼稚園でうまくやっていくためには、音楽と裁縫というジャスミンには持ち合わせがない才能が不可欠であることを、入学当初はまだ知らなかった。

日本では、ほかの国以上に、「良き母親」とは何かという定義がはっきりしている。1911年、日本がまだ明治時代だったころ、「良妻賢母」という女性像が国家によって推進されるようになった。国定教科書には「女子の天職は夫を助けて家政を整へ、子女を教養するにあり」と記された。「一家の世話をなし、家庭の和楽を図る」ことが女性の大切な務めであり、それによって夫と子供は家庭外での務めに集中することができると考えられていた。夫や子供たちが社会に貢献できるかどうかは、「良妻賢母」という理想の女性の双肩にかかっていたのだ。
女性の教育の目的がこのように定められるまで、子供は家庭の財産と考えられ、祖父母によって育てられていた。結婚してまもない女性は、田畑で身を粉にして働いたり、家庭内の仕事に長時間従事したりしなければならなかった。できる限り早い段階から子供も働くことが期待されていたため、子供の教育は優先度の高い事項ではなかった。
ところが明治政府は、急速な産業の再編を推進するために、国民の教育に力を入れるようになった。子供の世話をすることが母親の主な務めであると定められ、家族のために働くのではなく、学ぶことが奨励された。これによって女性の地位が向上するため、結婚したばかりの女性たちは、新しい役割を喜んで受け入れた。女性の役割は、もはや子供を産むことだけではなくなった。子供を正しく育てるという重要な役割が加わったのだ。明治時代の母親たちにとって、家族の世話をやくことは束縛や制限からの解放を意味していたのだが、同じことが現代日本の母親たちにとっては憂鬱のたねであるというのは、皮肉なことだ。日本における幼稚園の地位は、どこの国よりも高いといえる。というのも、日本で幼稚園がつくられたのは、子供の正しい育て方を母親に「教える」時期と重なっていたからだ。今でも日本の幼稚園では、母親も「教育」すべきだと考えているようだ。

日本人の友人が、彼女の娘が通っていた幼稚園の名誉園長が緊急保護者会を招集したときのことを話してくれた。そのときの緊急の議題というのは、子供のお弁当に入っている魚の量が少なすぎるというものだった。「皆さんが子供たちのために心のこもったお弁当をつくっていることは承知しています。しかしながら、今のままでは駄目なのです! お弁当に塩鮭を入れる人がいます。でも、それだけでは駄目なのです! 今どきの子供はお肉を食べ過ぎています。子供たちには、たとえば鯖のような、健康によい魚をもっと食べさせるべきなのです」と名誉園長は怒鳴るように話を続けた。「彼女はかなり高齢で、足腰も弱っているような状態だったので、話している最中に心臓発作でも起こして倒れてしまうのではないかと思った」と友人は語っていた。
日本人の母親たちは、名誉園長が語る明治時代の子育ての「秘訣」を、真剣には受け止めず、あえて反論する人もいなかった。このような状況下では、外国人の母親としては、まわりの母親たちに調子を合わせるしかなかった。

幼稚園に限らず日本の学校では、子供の学校生活を締めくくる大きなイベントとして、謝恩会が開かれる。謝恩会は読んで字のごとく「受けた恩に感謝する会」であり、子供たちが学校を卒業する際に、教師に謝意を表して開く会のことをいう。通常、幼稚園の謝恩会は、小学校以降の謝恩会と比べて、手が込んだものになりがちだ。幼稚園の先生たちの根気と辛抱強さには、誰もが感謝の気持ちを抱く。野生のままのような3歳の動物を、小さな人間へと変えてくれるのだから。
謝恩会に不可欠なのは、「出し物」と呼ばれる各種のプログラムだ。謝恩会の出し物は、結婚式で友人代表が歌をうたうような儀礼的なものではなく、お世話になった人への「贈り物」という意味合いがある。ジャスミンの息子が通っているような学力重視型の幼稚園や学校では、謝恩会の出し物は、手の込んだ華やかなショーとなる。子供たちが出し物を演じるだけでなく、母親たちもなんらかの演目を披露する。時間をかけて練習を繰り返し、感謝の気持ちを表現するのだ。
ジャスミンが出席した謝恩会は、ホテルのバンケット・ルーム(宴会場)で開催された。一家族あたりの参加費は3万円で、会場費、両親と子供の食事代、先生へのプレゼント代が含まれている。服装は礼装で、着物で参加する母親が多かった。
その年の演目はジャングルをテーマにしたお芝居だったので、ジャスミンは息子のためにゴリラの衣装を縫い上げた。母親たちには三つの選択肢があった。一つは日本舞踊を踊るグループ。二つ目は自分たちで台本を書いて落語を演じるグループ。日本の伝統芸能についてあまり詳しくないジャスミンは、仕方なくオーケストラに参加することになった。ジャスミンは早速、まとめ役の母親に連絡を取って、楽譜が読めないことを伝えた。するとその人は、明らかに動揺した様子で、「それは困ったわね」と言って顔をしかめた。幸いなことに、ジャスミンと同じく音楽にうとい人が、ほかにも二人いた。三人でリコーダー・トリオを組んで、卒業式で人気がある「翼をください」を演奏することに決めた。音楽監督の女性は、曲の選択を気に入ったようだった。というのも、「翼をください」のメロディーは、リコーダーのような単純な楽器で演奏したとしても、美しく響くからだ。
お芝居は首尾上々に終わった。ジャスミンの息子は、ゴリラの衣装の中で汗びっしょりになりながらも、心配していたようにその中で窒息したりはしなかった。リコーダーの演奏も含めて、すべての出し物が成功裏に終わった。「今回経験したことは、けっして忘れることはないでしょう。こんな短い間に、新しいことに挑戦して、それをなんとか最後までやり遂げたのだから。何も心残りはない。でも、もう二度とやりたくない!」

小学校──とくに公立小学校──では、ふつうは謝恩会にこれほどの時間をかけたりはしない。謝恩会の実行委員となる母親の数は、同じように3〜4人。小学校の謝恩会でも、母親たちはみんなで歌をうたったりしなければならないし、ときには公会堂のような施設を借りて開催されることもある。ただし、たいていの場合は、学校内の多目的教室のようなところで行われる。ふだん食べている給食よりも多少豪華な料理が用意され、生徒たちが恩師にお礼のスピーチをする。教師たちは花束を受け取って、卒業アルバムに記念の書き込みをしたりする。会費は5,000円ほどで、保護者は参加しなくてもよい。
しかしながら同じ学校でも、その年度の実行委員になった母親の顔ぶれによって、謝恩会の様子はかなり異なる。ときには幸運にも、恩師たちがこぞって謝恩会への不参加を表明するような場合もある。実際に、送別会のために母親がわざわざ時間を割く必要はない、と考えている教師もいる。
ある小学校には、謝恩会を開くかわりに、生徒たちを遊園地に連れて行ったり、映画に連れて行ったりする人気の教師がいる。そうなると、母親の出番はない。ただし、たいていの教師は、謝恩会で「感謝」されるのが好きなようだ。子供たちが中学校に進むと、母親たちは、ようやくほっと一息つくことができる。中学生以上になると、生徒自らが謝恩会を企画することになるからだ。

Story by Carol Hui
J SELECT Magazine, March 2010 掲載
【訳: 関根光宏】