ピアノ貴公子 山﨑 貴志

日本で5歳くらいの年齢の男の子が抱く将来の夢と言えば、医者や歌手、あるいはプロ野球選手といったところであろう。しかし、学生時代あるいは卒業後も夢を追い続けられるのは、ほんの一握りの人たちに過ぎない。
新進ピアニストの山本貴志さんは、今でも子供の頃の夢を追い続けている。5歳でピアノを始め、8歳で初めて舞台で演奏し、今では日本を代表する音楽家の一人と言えよう。
23歳となった山本貴志さんは、これまでに数々の輝かしい功績を残してきた。2001年には第70回日本音楽コンクールで3位入賞、第56回プラハの春国際音楽コンクールで3位入賞、第6回パデレフスキ国際ピアノコンクールで5位入賞、そして、第4回ザイラー国際ピアノコンクールでは優勝した。
こうした偉業は、間違いなく素晴らしいものである。しかし、それ以上に、山本さんにとって数々の受賞は日頃の練習に専念した結果あるいはご褒美に過ぎず、人生から何を得るべきかを山本さん自身が良く理解しているという印象を受けるであろう。
山本さんにとってピアノを弾くことは「プロフェッショナルな仕事」というよりも、「果てることのない好奇心や情熱」なのである。彼の演奏を聴くとそれがはっきりと伝わってくる。もはやそれを無視することは出来ない。そして、まだ若い年齢にも関わらず、彼の演奏には、落ち着いた自信と成熟さが感じ取れる。手中にこそ自分の運命があることを、彼が知り尽くしていることを暗示させる。

カーテンコールの合図でライトが暗くなり、コンサートホール内に漂っていたざわめきが急に静かになる。舞台中央に位置するグランドピアノに、一条の光りが射し込む。数秒も経たぬ間に、ぴんと張り詰めた静寂が、まるで耳が聞こえなくなったかのように聴衆を覆う。聞こえるのは、あちらこちらで携帯の電源を切る音だけである。一瞬の静寂。舞台袖のドアが開き、黒いフォーマルな衣装に身を包んだ山本貴志が現れる。ほっそりとした彼の肩にはそのジャケットは少し大きめに見える。突然、聴衆から盛大な拍手が沸き起こり、名演奏家が座ろうとするのと同時に急速に静まる。
そして、山本貴志は、各演奏の前に必ず行ってきた一連の動作をする。胸元の右ポケットから白いハンカチを取り出し、額、そして両手を拭き、鍵盤を右から左へとハンカチでなぞり、再度、両手を拭き、胸元の右ポケットにハンカチをしまう。椅子を調節し、上着とズボンを直し、そして、深呼吸する。
聴衆にとっては何かが今、まさに起ころうとしている。緊張する静けさの中、スポットライトを浴びて光る鍵盤に向かって手をゆっくりと挙げながら、山本貴志は最初の旋律を奏でる。

5歳でピアノを始めた後、山本貴志さんは桐朋学園大学音楽学部付属「子供のための音楽教室」で学び、桐朋学園附属音楽高校を卒業後、最難関と言われる桐朋学園大学音楽学部ソリストディプロマコースに進学した。そして、大学一年の3月、ショパンの故郷であるワルシャワでの留学を決意し、半年先の入学を待たずして現地に赴いた。ヨーロッパと日本での数々の音楽活動の第一歩となった。
現在、山本貴志さんは、ワルシャワ・ショパン音楽アカデミーでピオトル・パレチニ教授に師事する。パレチニ教授は、ポーランドの中で有数のピアニストであり、教授でもある。その音楽界における名声は、ポーランド大統領が自ら教授の称号を与えたほどである。
パレチニ教授のもとで学んだことは、2005年、ショパン国際音楽コンクールで4位入賞という素晴らしい結果をもたらした。5年ごとに開かれるワルシャワでの音楽コンクールは、その難関さがゆえに世界中の若きピアニストの憧れであり、1位該当者なしとの審査がされる時もあるほど厳しいことで有名である。
しかし、山本さんは幼い頃からこのような厳しい環境に身を置くことを望んでいた。プレッシャーに打ちのめされるようなことは微塵も感じられない。むしろ、一番好きなものに取り組めることに喜びを感じているようだ。
「小さい頃からクラッシックは自分にあっていたと思います。様々なジャンルの音楽を聴いてきましたが、一番自分らしくお客さんに自分の想いを伝えられるのは、クラッシックであると思っています。他のピアニストのCDは実はあまり聴かないのですが、ショパンやモーツァルト等の作曲家は好きで、とても尊敬しています。」
ショパン愛好者は日本に数多く存在する。批評家は、ポーランド人ピアニストに対する日本人特有の偏愛ぶりに着目した。おそらく、ポーランドの音楽に、どこかロマンチックなイメージを持っているのであろう。このような現象は、社会学者やポーランド人ピアニスト、ヤノシュ・オレイニチャク氏までを当惑させている。彼は、このような日本人の傾向を「産業スパイの伝統」と非難している。
さらに、ショパン・コンクールの参加者の多くが日本人であり、コンクールが開催される度に多くの日本人観光客がコンクールを見るために足をのばす。
1980年にコンクールが始まって以来、多くの日本人が賞を受賞している。加えて、日立マクセル社がコンクール初のスポンサー企業となったため、日本人の参加者は厚く保護されることとなった。
多くの日本人の親は、子供の才能を伸ばそうとヨーロッパに行かせることを夢見る。ワルシャワに行かせるのは良いことであると山本さんは言う。ワルシャワには他の国にはない、クラッシック音楽に対する平等の精神があるからだそうだ。ワルシャワにはエリート主義は存在せず、音楽家の個性を伸ばしていける環境があるという。
「初めてワルシャワを訪れた時、その文化は日本とはとても違っていて、街がとても素朴な印象を受けました。とても静かで好きな街です。音楽をするのにはとても良い環境です。クラッシックコンサートと言うと、日本では少しかたく難しい印象を与えるようですが、ワルシャワでは文化の一つとして日曜日に家族でコンサートへ行くような、そんな雰囲気があります。家族でクラッシックコンサートへ行くのを目の当たりにした時には少し驚きましたが、とても良いものだなと思いました。」
山本貴志さんは、クラッシック音楽を誰もが楽しむものにしたいと思っている。どこで演奏をしたいと思うか尋ねてみた。若き奇才は、カーネギーホールのような大きなホールの名前は挙げなかった。
「ワルシャワの街の美しいコンサートホールで演奏できることは、とても名誉なことだと思っています。でも、コンサートホールがそれほど大きくなく、ピアノもベストな状態とは言えないようなポーランドの田舎町でも私は演奏します。お客さんはいつでも温かく迎えてくれます。お客さんとの距離はとても近いです。大きな街で演奏するのとはまったく違った経験でした。大きな都市だけではなく、私のピアノを聴きたいとおっしゃる方がいらっしゃるところへ、どこでも行きたいと思っています。」
地に足の着いた山本さんの姿勢は、まず、なぜ彼がピアノを弾き続けるのかという理由を、そして、ピアノで成功することは二の次であるということを私たちに思い起こさせる。聴衆が彼の演奏で何かを感じ取ってくれれば、彼はそれで十分なのである。まだ23歳である。しかし、聴衆に旋律の裏にある本当の意味を思い出させ、感動させることの大切さを敏感に感じ取っている。
「言葉では言い表せないけれど、ピアノでなら伝えられる想いがあります。私の目標は、コンサートに来て下さるお客さんが、幸せな気持ちで帰られることです。コンサート会場に来られる時よりもコンサートが終わった後、ほんの少しでも幸せな気持ちになられるのであれば、私にはそれだけでもう十分です。」

二つ目の曲目であるショパンの“ピアノソナタ第2番変ロ短調「葬送」”で、山本の演奏は聴衆の心を引き込んでいく。憂いを帯びた旋律が空間を漂い、聴いている者が自責の念に駆られるほどである。
山本は今、浜離宮朝日ホールで演奏をしている。クラッシック音楽を聴くには良いホールだ。聴衆にとって、音楽家をすぐ手が届く距離に感じさせてくれる。装飾のないシンプルな舞台は、聴衆をより一層彼の演奏の魅力の虜にさせる。
聴衆は、老若男女と様々である。まだ、小学生くらいの子供、年配の方、デート中と思しきカップル、そして、華道家の假屋崎省吾さんも山本の演奏に聴き入っていた。
力強く、鬼気迫る山本の演奏は、周りの空気を跳ねのけるほどの勢いだ。彼は記憶の中の楽譜に身を揺らし、両の手は鍵盤の上を踊る。(山本は、演奏中は楽譜を見ない。)さらに、記者がパソコンに向かって記事を打つほどの正確さで、山本は鍵盤をたたく。曲が終盤に差しかかるにつれ、彼の演奏は静かで穏やかなものとなり、彼の内に秘めた感情すべてが噴き出されるかのようだ。それは、聴衆の心にも染み渡っていく。「葬送」の最後の一節が弾かれるや否や、満席の会場より拍手がどっと沸き起った。

クラッシックの楽曲を力強く感情豊かに演奏する源はどこからくるのか尋ねた。それはきっと、一朝一夕でもたらされるものではないと山本さんは話す。
「楽譜を見ると、その楽曲がどのような旋律を奏で、また、どのように表現されることを望んでいるかという様々なイメージが自分の中に湧き出てくるのです。その感情は、たくさんの練習を積んだ後に湧き起ってきます。だから、自分にとって、練習は一番大切なことなのです。」
しかしながら、身を捧げるほど練習に打ち込む日々に、まったく障壁がなかった訳ではない。一日6〜7時間のピアノの練習は、怪我をすることを恐れて、子供の頃に好きだったスキーなどの趣味を自粛させるほどであった。スキーが盛んな長野県の出身である山本さんにとって、それはつらいことであったに違いない。
加えて、彼はピアノの技術をある一定の水準に保つ努力を続けた。
「たとえ体調が良くなかったり、気分が乗らない日があったりしたとしても、私は自分が目標とする一定の水準を保たなければなりません。それは、時に困難なことでもあります。でも、私はそれを乗り越えて行かねばなりません。」
キャッチーなポップ音楽が流行る現代に、クラッシック音楽はどのように生き残っていくか尋ねた。山本さんは、それはとてもポジティブな挑戦ですと、目を輝かせて答えてくれた。
「クラッシックやポップス、ジャズなどどんな音楽でも、それは演奏家によって変化していくものだと思います。例えば、クラッシックは堅苦しいイメージがありますが、どのような演奏がされるかによって、それを聴くお客さんの印象は変わってくると思うのです。もし、私たちがクラッシックを通じて何かを伝えたいと努めれば、どんな方にとってもその音楽がより味わい深くなると思うのです。これは、私が最も大切にしている目標でもあります。クラッシックをまだあまりよく知らない方達が、クラッシックをもっと好きになってくれることが私の願いです。将来たくさんの人々がクラッシックを楽しむ、そんな音楽になってほしいと願っています。」

最後のキーの音が次第に消えて行くと同時に、聴衆からは一斉に盛大な拍手が沸き起こった。アンコールを求める拍手の嵐。若きピアニストは、3回も入場と退場を繰り返した。聴衆は、この若きピアニストにもう一曲演奏する余力が残されているのか疑問に思い始める。彼の体からは生気があまり感じられない。それは、彼が心の底から魂を込めて演奏した証である。演奏に費やしたエネルギーは、驚くほど激しいものであった。
そして、疲れているのにも関わらず、山本はアンコールを求める拍手に答えて演奏した。曲自体はそう長くはない。しかし、楽譜を通して感じられる山本の感情が、聴衆の耳に心地よく響く。聴衆は心が静かに満たされる中、家路につく。

今や日本のクラッシック界で有名となった山本さんは、髪を脱色した現代的な出で立ちを自ら楽しみ、クラッシック界では珍しいメディア受けするわかりやすさと親近感を備えている。23歳の奇才と他の人気あるミュージシャンやタレントとの違いは、山本貴志さんには伝えたいメッセージがあり、ショパンをどのように彼が解釈するのか私たちの興味をそそるということである。
受賞した数々の賞に注目するよりも、むしろ山本さんは、こうした賞が脚光を浴びるきっかけとなり、そして、彼の目標である音楽への敬意を人々に広めるきっかけとなったと理解している。
「これまで数々のコンクールやコンサートを楽しんできましたが、自分にとって一番大切なことは、これらを経験すること、そして、この経験はより良い音楽を作っていく為に必要な過程であると思っています。音楽が素晴らしいものであると伝えていきたいと思っています。」

日本人の演奏は個性がないとか潔癖な印象を与えるとかいう音楽批評家による根拠のない批判がある。しかし、山本さんは、テクニックはもちろん大切なことではあるが、もっと大切なことは、演奏中に湧き起こる、言葉にはできない感覚であると考えている。ピアノを弾く速度を変化させることで形作られていく感情の変化、そして、演奏家の微妙な心の動きが旋律の裏に隠されていると彼は考えている。熟達した演奏家は常に楽譜通りに演奏することができる。しかし、真の演奏家は、楽譜を自分のものにできた時に初めて素晴らしい演奏と言えるのだと、山本さんは語る。
謙虚な山本さんは、これから長く続く、実り多い道程のまだほんの入り口にいるのだと話す。まだ若いので、経験は浅いと言えるかも知れない。彼の前には乗り越えて行かなければならない壁がいくつも存在することであろう。それは、才能溢れる若き芸術家たちが、一度は通らなければならない試練と言えるのかも知れない。多くの場合、このような壁とどう向き合うかが、未来の世代にどう見られていくかを決める。山本さんは、日本のクラッシック界の天才なのであろうか。それとも、ぱっと現れたに過ぎない人なのであろうか。
結果がどうであれ、山本さんは将来に対してたくさんの夢を抱いている。

Story by Manami Okazaki
J SELECT Magazine, February 2007 掲載
【訳: 青木真由子】