髙田 延彦: 男のなかの男

男のなかの男

8歳になる私の娘は、髙田延彦が大好きだ。彼女にとって、彼は大きなテディベアである。子供たちと大人たちとの鬼ごっこでは、髙田の大きな体(身長183センチ、体重95キロ)ゆえに、彼は人気の標的となり、いつも最初に子供たちに捕まってしまう。実際、娘と彼女の友達は、ニンテンドーDSの「トモダチコレクション」で、「のぶさん」は「和み系キャラ」としてゲームの中で分類している。

しかし夫に言わせると、その印象は全く違ったものになる。「学生時代のヒーローで、最強の男だよ」夫は学生時代、カステラの文明堂で売り子をして苦労して得たバイト代を、髙田延彦の試合のチケットを買うために惜しみなく使った。髙田延彦は、まさに子供たちのテディベアであると同時に、強い男の象徴と言える。髙田のリングでの成功と引退後の人気がそれを物語る。

すべてのはじまり

子供の頃、髙田は野球に夢中な少年だった。しかし、14歳の頃、アントニオ猪木の姿に心を奪われ、スポーツを変えた。「当時猪木さんのカリスマ性を言葉にして説明するのは、難しいですね。あの人は、私たちのスーパーヒーローだったのです」(この言葉は、まさに夫が髙田延彦に抱く畏敬の念と同じである)「今では信じられないことですが、当時は、ゴールデンタイムの時間帯に、3つのプロレスのテレビ番組が放送されていました。一つは、ジャイアント馬場さんの番組。もう一つは、アントニオ猪木さんの番組で、その他にもプロレスの番組がありました」髙田は当時を思い出して語った。

日本のプロレスは、エンターテイメント性の高い、国民にとっての娯楽として始まった。韓国出身の力道山は、小柄ながらも外国人レスラーを次々と打ち負かし、国民的ヒーローとなった。1963年のアメリカ人覆面レスラー、ザ・デストロイヤーとの戦いは、テレビで歴史に残る高視聴率を獲得した。この試合でも、力道山は、ザ・デストロイヤーに勝利している。日本人のほとんどが記憶している瞬間と言えよう。当時は、まだテレビが広く普及していなかった為、人々は、近所のお金持ちの家に集まり、力道山に声援を送った。1970年代には、ジャイアント馬場とアントニオ猪木が、プロレス人気を引き継いだ。しかし、1980年代に入ると、プロレスは、国民的スポーツというよりも、おもに男性が見るスポーツとなる。

野球と違い、プロレスラーを志願する若者にとって、身近にコーチなど指導者は存在しなかった。その為、若き髙田は自分で考えた自己流トレーニングを積まねばならなかった。「プロレスの雑誌には、どのようなトレーニングをしたら良いのかを解説している記事もありますが読み飛ばしてしまうような小さな記事です。私は、写真をじっくり眺めて、真似できるものはすべて吸収しようと思いました。生の試合を見る時は、少し早めに試合会場に行って、ウォームアップする若い選手たちを見ていました」。髙田は、肉体の強化に努め、17歳の時、アントニオ猪木が設立した新日本プロレスに入団した。

髙田のプロレスラーとしての人気はうなぎ登りであった。1981年のデビュー後、プロレス団体の縮小や合併がある中で、20年に渡って世界のトップレスラーとして根強い人気を博した。「私自身、その経過を正しく追うことはできません」髙田は苦笑した。他のレスラーと髙田を区別したものとは、その絶大なる強さと勝利である。加えて、髙田は、強さによる実力主義を前面に打ち出した「シュートスタイル・レスリング」のキーパーソンとも評され、後の総合格闘技への道を開くこととなる。

「当時の日本のプロレスは、台本の用意されたドラマであると信じられていました。それは私にとって、どんなにトレーニングを積んでも、どんなに試合に勝ち続けても、大変イライラさせられることでした。ファンの間でもリアルな戦いを見たいという機運が高まっていました。よりリアルな戦いを見せる時代に来ていたのです」トップスターと戦う一試合一試合に髙田は勝ち続け、記録を塗り替え、その人気は頂点を極めていった。

「強い男」と呼ばれた者にとって、「強さ」とは何を意味するのであろうか。また、人気を博した者にとって、「男」の意味とは何であろうか。これらの言葉を二つながらに持つ者が語るその答えは興味深い。「失敗の後に、自分を奮い立たせる能力があるかどうかだと思う」髙田は、しばし熟慮した後にそう言った。「それができることは、強い男である証だ」敗北は、髙田も経験したことなのである。

己の誇りの為に戦う

総合格闘技イベント「PRIDE」の大会は、1997年に始まった。日本の総合格闘技界のスターである髙田延彦とブラジルの伝説的格闘家であるヒクソン・グレイシーが戦った第1回大会は、他の試合が小さく霞むほど、日本のメディアで大々的に取り上げられた。人々は、力道山の再来を願い、日本の強さを世界に証明してくれるであろうと期待した。「でも、私は試合に負けた。実に屈辱的でした」彼は、取り繕うことなく、正直に話してくれた。「その後1カ月間は、まったくの無気力で時計の針がとまってしまったような日々でした。まだ引退したいとは思いませんでしたが、リングに戻れる自分の姿を想像することすらできませんでした」

しかし、髙田には、リベンジする機会が巡ってきた。大会の主催者は、彼が再試合を望むことを信じて疑わなかった。ヒクソン・グレイシーには再試合を拒否する選択肢もあったが、髙田の熱意に促され、再挑戦を受けることとなった。

「髙田は、戦士のようだ。彼には、再挑戦する資格がある」ヒクソンは、1998年に行われた雑誌の取材でこう話した。

「最初のヒクソン戦では試合の一年前からトレーニングの仕方を一から変えました。アルコールの摂取を避け、人生で初めての減量を試み体重の管理も徹底して行いました。逆に試合に対するプレッシャーも、良い方向に受け止めました。自分の思い描く通りにすべてを実践してきました。過去に上手く行った経験も活かしました。それでも、二度目も負けてしまいました。しかし、この敗北は、自分の出し得る能力をすべて出し切った結果であり、試合後も、誇りを持って立ち去れる試合でした。最初の試合の敗北は、私にあらゆることを教えてくれました。試合に勝つことは、もちろん気持ちの良いものです。しかし、敗北からも得るものがたくさんあり、学ぶことは無限なのだと教えてくれました」

この再試合後、PRIDEは華やかなスポーツエンターテイメントとして人気が集まり、世界中から有名な選手を招き、日本の総合格闘家たちと試合を行った。世界40カ国以上で、PRIDEの試合が放送された。PRIDEは、2007年、アメリカのUFC

(アルティメイト・ファイティング・チャンピオンシップ)に買収され、選手たちもUFCの傘下となった。PRIDE時代の髙田は当時ベテランの域にあり、なくてはならない存在として活躍した。

セレブとしてのキャリア

プロレスは、スポーツであると同時に、エンターテイメントでもある。髙田は、今まで以上に、「ショー・レスラー」としての自分を追求した。2004年、髙田は、「ハッスル」というプロレスイベントを始めた。よりエンターテイメント性を追求したイベントであり、悪役である髙田総統は、観客を大変に魅了し人気となった。2009年、髙田総統が消滅すると、彼が率いるモンスター軍は解散した。

この時期、髙田はエンターテイナーとして、様々な仕事に挑戦した。その一つに、ディズニーのアニメーション映画『Mr.インクレディブル』の声優の仕事がある。「声優の仕事では、ただただ大きな声で吠え続けたことを覚えています」アスリートの多くは、引退後、芸能界に転身することが多いが、大抵は一年か二年で消えてしまう。しかし、髙田をテレビで見ない日はない。バラエティ番組やクイズ番組、旅行番組などに引っ張りだこだ。さらに、音楽番組のラジオDJとしても活躍している。

髙田の人気は、彼の人柄の二つの異なった側面にある。女性や子供には、優しい声に、柔らかな態度、少年のような笑顔を持った大柄の紳士であり、男性には、いまだにスーパーヒーローであり、強さを持ったリーダー的存在である。彼が自嘲気味に話す時は、その飾らない人柄を垣間見ることができる。また、彼は、仕事に対してプロ意識を持って常に取り組んでいる。「いつも楽しんで仕事に取り組んでいます。仕事を与えられた時に必ず意識することは、何か自分らしさを打ち出すことができたかということです。楽しんでもらえたか。あるいは、自分の存在を少しでも前面に出すことができたか。常にそれらを意識して仕事をしています」

子供たちに教える

髙田が最も楽しんで取り組んでいる仕事に、教えることがある。彼が主催する髙田道場は、総合格闘家である桜庭和志を生み出したことでも大変知られている。しかし、トップの格闘家を輩出することだけが、髙田の夢ではない。「小さなエリート集団を教えるよりも、より多くの人たち、特に子供たちに、道場で、体を動かして欲しいと切に願っています」

髙田道場では、一般向けのレスリングのクラスや子供向けのクラスがある。体力やしなやかな心を作ることが目的の体操のクラスもある。「親御さんは、挨拶や礼儀を子供につけさせたくて、この道場に入門させます。それらを教えることは、もちろん私の仕事ではありますが、それと同時に体を動かすことを楽しんでもらいたいと思います」髙田道場が成功していることの証に、低い退会率が上げられる。「子供たちは一度この道場に入門すると、長い期間学んでいきます」髙田は誇らしげに語った。

髙田は、子供たちに体を動かすことをより楽しんでもらおうと、ダイヤモンド・キッズ・カレッジという無料イベントを始めた。このイベントはワークショップの形態で行われ、月に1回、4歳から12歳を対象に、全国各地で行われている。髙田式体育レスリングを通して体を動かす楽しみを子供たちに伝える一方で、それを見守る親たちに、子供たちを外で遊ばせ、走らせ、冒険させることを促す目的もある。「子供たちは、走って転んで痛みを知り、自分を立て直す方法を学ぶのです。時には子供同士がぶつかり合いながら心身の痛みがどれほどのものかを学ばなければなりません。そうすれば、他の子供をいじめることもないでしょう。勇気を出して試合に臨み、勝つことの喜びを覚えると同時に、負けからも学ばなければなりません。私が今日あるのも、そんな子供時代を生きてたからだと思っています」

7歳の双子の男の子の親でもある髙田は、自らの子育ての経験から、都会に住む子供たちを、ビデオゲームから遠ざける難しさを、身を持って知っている。彼は、息子たちを屋久島に連れて行った経験を思い出して語った。「最初、息子たちは髙いところに登るのを怖がり、何に対してもビクビクしていました。でも、地元の年上の男の子に、水棲昆虫の捕まえ方を教えてもらったり、とがった岩を登ることを教えてもらったりするうちに、目の輝きが変わり、新しいことに自ら挑戦するようになったのです。子供たちには心身を強くなるために、このような経験が絶対的に必要だと思います」

髙田は、昨年、「のぶさんと行く自然学校」という新しいプロジェクトを始めた。週末に行われるこの自然学校では、田植えや稲刈り、脱穀を通して、自然と触れ合う機会を提供している。野菜の収穫、卵の採取、搾乳も体験することができる。人気の有名人と過ごす週末は値段も高くつくように思われがちだが、他の旅行ツアーよりも安く抑えられている。自らの人気を活かして、協賛を募っているのがそのおもな理由だ。稲田や野菜、稲作に関する知識などは、すべて地元の人たちの協力のもと、無料である。ダイヤモンド・キッズ・カレッジでは、オリンピック金メダリストである吉田沙保里選手や元横綱の曙などが、スペシャルゲストとして参加している。これも、スペシャルゲストたちが彼らの貴重な時間を髙田の為に費やそうと集まったものである。

髙田に対する敬慕の念は世界的に広がっている。しかし、髙田は、世間に認められたくて髙田道場を開いている訳ではもちろんない。「息子たちが年頃になって、フラフラと過った方向に進みそうになった時、ふと『それはやめた方がいい。もし親父に知れたら、本当にすまないと思うから』と。権力が欲しいのではなくて、父親の威厳のような影響力が自分に備わってくれたらと思います。そうなった時、私は自分のことを男と認められるでしょう。」

【訳: 青木真由子】J SELECT 2011 February掲載