Cool charmー夏木マリ

夏木マリは、低俗化する現代の日本のショウビジネス界に異色の風を吹きこみ続ける。

巨大な干草の山に覆われたステージの上で、ボサボサのウェービーヘアに麦わらを絡ませた夏木マリがドラム缶に腰掛けている。彼女は愛らしくもあり、恐くなるほど激しくもある。彼女はドラム缶を叩き始めるが、リズムが安定した途端にそれをやめ、耳を澄ませ、見上げ、そして咳き払いをする。観客がくつろぎ始める度に、それを遮るのだ。彼女は観客達に、観客とはパフォーマーの見せるショウに無批判に屈服するものではないということを思い知らせる。観客である私たちを考えさせるために舞台に立ち、彼女の放つ無数の声全てがストーリーを語るのだ。

著名な「活動弁士」である澤登 翠氏は、夏木マリと他の映画スター達を比べてこう語った。「彼女は、国籍や人種、年齢、場所やメディアなど、全ての境界を超越する彼女のパフォーマンスに対しとても正直です。ある瞬間は小さな子供であり、次の瞬間には老人にもなります。彼女は男性であり、女性であり、全てなのです。とても深い意味でアーティストであり、その才能は、いままで見た誰とも – 特にかわいくて綺麗であることが成功を意味する日本の芸能界においては – 異質なものでした。」

いわゆる「キティちゃん」的可愛らしさがもてはやされる日本において、夏木マリは正に謎の存在である。彼女のお気に入りの女優はジャンヌ・モローであり、お手本としているのはピナ・バウシュ、そしてカート・ウェイルの音楽をこよなく愛する。ウージェーヌ・イヨネスコとサミュエル・ベケットがまだ生きていて東京に住んでいたならば、夏木のために脚本を書いたであろう。彼女をあまりテレビで見かけないのも無理はない。なぜなら、彼女はそこには属していないのだから。その存在感は、エンターテイメントと称して提供される近頃のお気楽なテレビ番組にはヘビー過ぎるのだ。夏木はどのように現在のそのスタイルを築き上げたのだろうか?

「私の父は音楽を愛する普通のサラリーマンで、家にはいつもクラシック音楽が溢れていました。」夏木は言う。「将来は音楽の先生になろうと思っていました。その世代の女の子たちの普通の夢 - 結婚をして、平凡な生活を送るという夢を持っていたのです。とても恥ずかしがり屋で、自分の感情を表現することができませんでした。とてもアンバランスな子供だったのです。」

1952年、東京に生まれた彼女は、家族の願いには反していたが、高校卒業後も歌う事に専念し、「中島淳子」という本名で2枚のアルバムを発売した。しかし2枚とも失敗に終わり、最後のチャンスに賭ける事にしたのだ。「その時はまだ6月でしたが、夏の終わりまでに歌手を続けるのか、辞めるのかを答えを出そうと決心して、「夏木マリ(夏・決まり)」と名前を変えたのです。」

1973年、セクシーな表現が話題となった「絹の靴下」の曲により、一躍国民的なセンセーションを巻き起こす。しかしその後数ヶ月に渡り、深刻な急性貧血のためテレビから遠ざかったため、スターダムから引きずり降ろされてしまったのだ。夏木が持つよりダークな側面は、キャバレー歌手として日本中の酒場のステージで歌った経験によって形成された。

「30歳近くになるまで、8年間、キャバレーで歌い続けました。最悪のもがき苦しむ様な日々でした。経済的には潤いましたが、生き方には満足していませんでした。とても惨めで、私の人生はこんなものなのかと思っていたものです。」

だが幸いなことに、やはりそうではなかったのだ。突然、夏木はミュージカルの役に抜擢され、成功を収め、その後も出演依頼が続いた。彼女の大女優としてのキャリアの始まりであった。

「ただ歌っていた時は、とても心地良さを感じていました。でも劇場の舞台に立ってみて初めて、自分がダンスや歌や、演劇について何も知らなかったことに気付いたのです。自信をなくし、様々なコンプレックスを感じ始めました。そしてもっと上手くなりたいと願い、トレーニングを始めたのです。」

夏木はその後の10年間、様々な舞台や映画に出演しながらトレーニングを続けた。数枚のアルバムもリリースした。彼女はスターとなり、全てを手にしていたが、それでも更なる変化を求めていることを感じていた。

「“そこに立て”、“こう言え”、“こうしろ”と言われ続けることにうんざりしていたのです。」彼女は言う。「日本は序列的な社会で、芸術の世界でのシステムも同様でした。監督は先生のように演じ、俳優たちは生徒以外の何者でもありません。監督は俳優たちにこうしなさい、と命令し、そこには議論の余地がありません。もっと自分の演技について他の人たちと一緒に考える時間が欲しかったのです。」

1993年、夏木は第一回目の演劇「印象派」を自ら執筆し、自ら監督し、そして演じた。以来12年間に渡り世界中で公演をしており、ポーランド、フランスやロシアでは、それぞれの国の言語で夏木マリのウェブサイトが開設されている。そして現在は、2006年10月に予定されている第八回目の「印象派」の準備を進めている。

「海外で演じることが大好きです。観客が成熟していて、そして正直だからです。」夏木は言う。「彼らはショウを気に入らなければ立ち上がって帰ってしまうし、逆に気に入ればスタンディングオベーションで喝采を与えてくれます。そういう観客たちのおかげで、より強い人間、より強い演技者になれたのです。」

夏木はそれ以外の活動も精力的に行っている。テレビ番組に出演したり、参加者のアイディアを尊重し、活発な議論を交わす定期的な演劇ワークショップを開催したりと多忙だ。今年の始めにはアルバム「戦争は終わった」をリリースし、宮崎駿監督のアニメ「千と千尋の神隠し」の湯婆婆役(声優)に引き続き、大きな話題を呼んでいる。また6月1日から19日まで、彩の国さいたま芸術劇場にて上演される三島由紀夫著「近代能楽集」では、弱法師(よろほし)を演じる。

国際的に著名な詩人であり作家であり教育者でもあるマヤ・アンジェロウは言った。「学んだならば、教えなさい。得たならば、与えなさい。」夏木マリの存在は、この概念が実行されている最適な例だろう。ショウが終わっても、彼女のスピリットはいつまでも残る。彼女のスピリットそのものである作品は、世界各国の言語に翻訳され、世界中で生き続けていくのだ。

Story by Judit Kawaguchi
From J SELECT Magazine, June 2005掲載
[訳:安達理恵]