津軽三味線奏者・吉田兄弟

穏やかな印象を与える北海道出身の二人の津軽三味線奏者が、気難しいことで有名なアメリカの聴衆を狂乱の渦に陥らせたなどとは想像しにくいことであろう。しかし、それは、先日吉田兄弟がツアーで廻ったアメリカにおいてまぎれもなく起きたことであった。そこに、アメリカの50年代から60年代を風靡したエヴァリー・ブラザーズを見るようであった。

着物の出で立ちの28歳の良一郎と26歳の健一は、その電撃的な演奏で瞬く間にアメリカのおびただしい数のライブハウスを満員にしていった。デビューアルバムで大好評を得た吉田兄弟の演奏は、躍動感のある現代的なスタイルに、古典的なコードを解放させた独自のスタイルを貫いており、若者から年配までを魅了してやまない。

1999年にデビューを飾って以来、吉田兄弟の名前は日本で有名となった。しかし、彼らは急速で一時的な人気には敏感に気づき、世間から注目されることをあえて避け、むしろ若い人達に津軽三味線を教えることを好み、津軽三味線の後世への継承に熱心であった。

音の融合

津軽三味線は東北地方青森県で生まれた3本の弦を持つ弦楽器である。その原型は中国を発祥の地とし、まず沖縄に伝えられた。やがて交易商人により本州に持ち込まれ、蛇皮製であった表面を猫の皮張りに、また数センチメートル長く、その姿を変えた。

津軽三味線はバンジョーのように演奏し、シルクの弦を弾くことによってビブラートを奏でる。津軽三味線が持つ独特の音色は、ほとんどの日本の伝統芸能に用いられるようになった。津軽三味線は、三曲合奏や歌舞伎、文楽などにおいて欠かすことの出来ない楽器である。

津軽三味線は非常に適応性に富む楽器ゆえに、多くの音楽家が作曲をする際に大きなインスピレーションを与えてきた。吉田兄弟のデビューアルバムはまさにその証として位置づけられる。彼らは、津軽三味線の音色にブルガリア民謡や、ブライアン・イーノ、タンゴや日本のポップ音楽までをも融合させた。彼らは、映画音楽の巨匠トニー・バーグと全身全霊でデビューアルバムの制作に取り組み、2ヶ月に渡ったその努力がやがて実を結んだ。

「それは、大変素晴らしい経験でした。」バーグは言う。「彼らは驚くべき才能を持っている、素晴らしい人達だ。私達は、吉田兄弟がそれ以前に作っていた物とは違った形のアルバムを作ろうと試みました。アルバムの折衷主義とも言えるものは、美と表現に富んだ三味線の魅力と、二人の兄弟が兼ね備えた傑出した音楽家精神との賜物です。彼らのコンサートやオリジナルの作品を通じて、彼ら自身をより深く知ることとなりました。健一はどちらかと言えば社交的でアップテンポな曲を作るし、良一郎はどちらかと言うともの静かで、彼の作り出すメロディーはゆったりとしていて哀愁を帯びています。」

似ているようで異なる存在

実際、二人の兄弟の異なる点(あるいは似ている点)を見極めるには、幼少の頃まで遡る必要がある。二人は北海道に生まれ、物心がつく頃には既に二人で三味線の演奏をしていたという。

良一郎は言う。「僕達は5歳の頃から三味線を演奏していたので、自然と仲が良かった。同じ楽器を演奏していたので、ライバル同士とも言えるかも知れないけれど、でも、そのおかげでいつもお互いが相手よりも早くうまく弾けるようになろうと思って、お互いのテクニックを磨くことが出来きました。」

健一がそれに答える。「僕は、兄に追いつくだけでなく、兄よりもうまくなりたいと思っていました。お互いの存在が功を奏したかわからないけれど、僕達はいつでもテクニックを上達させようと練習に励んでいました。そう言った意味では、僕達は、簡単には得がたい完璧な芸術をとことん追求する職人に近いのかも知れません。」

兄弟は、三味線奏者である現在の自分自身を好きだと言うが、少年時代に三味線を練習させられていたことはトラウマであると打ち明ける。

良一郎は話す。「5歳の子供が50代や60代の人達と一緒に練習するところを想像してみて下さい。当時、周りの子供たちで津軽三味線に興味を持つ子はほとんどいなかった。僕達は、変人扱いされてからかわれました。でも、父が辞めるなと励ましてくれて、僕達は練習を続けることが出来たのです。本当に津軽三味線の面白さがわかってきたのは、10代になってからです。」

健一が続ける。「今は、津軽三味線を続けてこられたことに感謝をしています。もちろん、祖父よりも年配の仲間を持ったことは、人間について教えていただいたり、挨拶や礼儀作法について教えていただいたり、素晴らしい経験となりました。僕達はとても良い意味で、早く大人になれたと思います。」

「僕達の先生が、僕達の奏でる音楽を世界に広げる為にも、英語が習得した方が良いと、とても強く勧めて下さいました。」良一郎は言う。「10代の頃の三味線の恩師の佐々木孝先生には、大変影響を受けました。佐々木先生は、僕達に夢を与えてくださり、三味線の厳しさを教えてくれたのです。残念ながら先生は5年前にお亡くなりになり、まさに先生が思い描いていらしたことを、今僕達が実現させつつあることをお知りになることは出来ません。でも、すべては先生のご助言があり、練習を続けてきたからこそ出来たことなのです。」

「でも、僕達はもっと練習出来たはずなのに。」健一が言う。「僕達はもっと真剣になるべきだったのだけれど、目の前に素晴らしい師がいることを理解するのにはまだ幼過ぎました。」

夢と目標

吉田兄弟は、和太鼓の巨匠、林英哲氏の数多くの太鼓を同時に操る、野性味を帯びた独自の演奏スタイルから多大な影響を受けたと言う。

「僕達の父が、演奏を続けるようにといつも勇気づけてくれました。」良一郎は語る。「小さな町に生まれながらも、三味線の音を世界中に伝える為に演奏活動をしていることが、僕達はいまだに信じられません。」

吉田兄弟のもう一つの使命は、伝統ある津軽三味線の音楽を次の世代へと伝えることである。このことを実現させるべく、二人は日本の子供たちに再び三味線の魅力を伝えるプログラムに参加している。2001年より、日本国内の多くの中学校において、伝統楽器を扱った授業が選択科目として導入された。

「子供達たちは今、太鼓や琴の授業を受けることが出来ます。」健一が言う。「僕達は日本国内の学校を訪れ、子供たちに三味線の持つ多才さと素晴らしさを教えてきました。いかに三味線の音色がフラメンコからロックまで、ありとあらゆる音楽と融合するかということを伝えました。」

この5年間というもの、吉田兄弟は出来るだけ多くの日本国内の町という町を訪れ、三味線のパフォーマンスを繰り広げてきた。

「1999年から2004年に渡って、僕達は国内をツアーで廻り、年間80を超えるライブを行ってきました。」吉田兄弟のマネージャーは言う。「今は、一年の半分を国内で活動し、残りの半分は海外で活動しています。我々の願いは、世界の人々に三味線の美しさを伝えることです。」

その言葉のとおり、すべてがそのように動き出している。吉田兄弟のデビューアルバムは日本で莫大な人気を博し、そして今や世界中のミュージックストアで吉田兄弟のアルバムがワールドミュージックのコーナーに並んでいる。日本の熱心なファンはもしかしたら寂しく思うかも知れないが、もはや、吉田兄弟は過去の国内で築いた実績にあぐらをかいて甘んじたりなどしてはいない。

「もちろん、日本の三味線は日本の伝統文化ではあるけれど、僕達のゴールは、世界中のカントリーミュージックや民族文化を学んで、それらを僕達の音楽と融合させることなのです。」健一は語る。

二人の固い決意を聞き、二人の目指すものがそれほど遠いところにはないことを感じた。あなたの地域で吉田兄弟が演奏するのを、心して聞いて欲しい。

Story by Judit Kawaguchi
From J SELECT Magazine, October 2005掲載
訳: 青木真由子