日本学者 アレックス・カー

ペンは剣より強し、という格言がある。例えこの格言が鼻であしらわれようとも、右手に持ったペンにはやはり言葉を力強く発信する力があるのだということを否定する者はいないであろう。アレックス・カーは、作家であり、学者であり、古典美術のエキスパートであり、街の復興を手掛ける会社の実業家であり、社会、文化、環境問題の批評家であり、いつでもこの古い格言を、身を持って体現している。もし、彼が型にはまったキャリアを選んでいたとしたら、北アメリカのどこかの大学でアジア学でも研究していたかも知れない。しかし、二冊のベストセラー本を出版し、幅広い分野の文化活動を手掛ける彼は、自ら日本で最も影響力のある活動家としての道を切り開いてきた。彼が手掛ける活動は、日本の社会問題に始まり、文化・環境問題にまで至る。日本に新しい息吹を吹き込んできた。カーにとって、こうした運動の原動力となったのは、単純に目の前に行動を起こす機会が転がっていたからだという。「活動を起こすのは、私に出来ることがあるからです。徳島県祖谷地方でのプロジェクトでは、最初は、何も出来ないのではないかとの懸念もありましたが、プロジェクトが完成して、私にも出来ることがあると実感しました。京都でのプロジェクトでも、成し遂げることが難しいのではないかと思っていましたが、日本には今、新しい気運があって、変化を遂げることも可能であると感じています」カーは語る。日本の文化と景観の崩壊を鋭く非難し、国の政治と企業エリートに対する激しい非難で知られるカーの主張は、注目の的となった。「まだまだ道程は長いです。でも、以前とくらべると、希望が持てるようになりました」

バイリンガルで多方面に渡って好奇心旺盛なカーは、ずっと学者としての道を歩んできた。1952年、アメリカのメリーランド州のベテスダで生まれたカーが、初めて日本に触れたのは、海軍に所属する

父親が1964年から1966年まで横浜に勤務したことがきっかけであった。12歳から14歳までを横浜で過ごした彼は、その後、エール大学で日本学を専攻した。(その後、ロータリー奨学金を得て、慶応大学で学んだ。)その後、ローズ奨学金を得て、オックスフォード大学で中国学を専攻した。慶応大学に留学中の1973年、国内を旅行中に、人里離れた徳島県祖谷地方を訪れ、200年前に建てられたかやぶき屋根の古い民家を購入し、修復した。この民家は、箎庵(ちいおり・笛の家)と名付けられた。箎庵は、それから約20年後に復興と環境保全に焦点を当てた箎庵プロジェクト(後に箎庵トラストと名前を変える)の本拠地となる。1977年にオックスフォード大学を卒業すると、カーは日本に戻り、京都の郊外にある亀岡市に居住を構える。異なった宗教間の活動や古典美術の研究をする神道の一派、宗教法人大本教国際部基金により、日本の古典美術の研究を始める。宗教法人大本教での研究のさなか、1980年代から事業を広げる。テキサスにある不動産会社とアジア美術に熱中するトランメル・クローのアートコンサルタントとして従事する。この間、カーは、タイ国を始めとする東南アジアなど広範囲に渡る地域を旅し、1997年、バンコクに活動の拠点を移した。しかしながら、皮肉なことに、この10年間日本に滞在する時間が増え、二冊のベストセラー本『美しき日本の残像』(1993年)と『犬と鬼―知られざる日本の肖像』(2002年)を出版し、日本で社会的・政治的活動家として最前線に立ち、日本の精力的な活動家としての一人として認知されるに至った。

京都からバンコクへ拠点を移すと共に、現代日本に対する辛辣な二冊の本を出版したカーであるが、彼は二つの出来事を切り離して次のように語った。「たくさんの人達が、私が日本にうんざりしてバンコクに渡ったと言いますが、実際には違います。1980年代から私は、東南アジアで過ごしてきましたし、バンコクには1990年初頭からアパートを持っていました。京都を離れる前から、バンコクで一年の半分を過ごしてきました。皮肉なことに、拠点を移してから、一年の三分の一をバンコクで過ごし、その残りは日本で過ごしてきました」日本とバンコクという二つの拠点を持つことで、二国に関して本を執筆する際に二国を客観的に見られるようになったと、カーは語る。「『美しき日本の残像』と『犬と鬼―知られざる日本の肖像』は、タイで執筆しました。これから出版する予定の『Bangkok Found』は、日本で執筆しました」タイを始めとする東南アジアで、カーはアートと文化に対する貴重な発見をし、日本と中国を研究した後のカーにとって、東南アジアに対する第三の目を培うことが出来たと語る。「タイやカンボジア、ミャンマーなど、東南アジアには私の知らないことがまだまだたくさんあります。それは、終わりなき魅惑的なことです」カーは、長期に渡って日本で行われてきた古典美術のワークショップ(今では、京都にある大本教の境内の外で行われている。)をタイでも行っている。タイのワークショップでは、タイ踊りや音楽、タイのフラワーアレンジなどがバンコクにある修復されたタイハウスとチェンマイで行われている。「文化的に、タイは東南アジアの中で最も日本に近い国と言えるでしょう。例えば、君主制であり、過去からずっと植民地化されていない国家である点などです。そして、社会的な物事の感じ方、態度など共通項はたくさんあります」

タイが、カーの多方面に渡る知的好奇心、そして、プロとしての好奇心をかき立てるその一方で、文化や環境、景観、社会構造を破壊し続けている時代遅れの政治や企業文化に異議を唱え、物議を醸し、カーを一躍時の人とさせたのは、ここ日本でのことである。カーによって日本語で執筆された
『美しき日本の残像』は、1994年度新潮学芸賞を受賞した。外国人として初めてのことである。この本の出版により、小さいながらも重要な影響を日本国内に与えた。発展という名のもとに、地方で行われる政府補助金による必要のない建設プロジェクトの数々、京都の伝統的な景観の破壊などに対する懸念である。しかし、『美しき日本の残像』は、物議をかもした本としては、まだ序章に過ぎなかった。6年もの月日を掛けて研究され、出版された『犬と鬼―知られざる日本の肖像』は、さらに冷厳であった。そこで、カーは、誤り導かれた日本の政策の泥沼化と組織化された腐敗を体系的に分析した。日本の政策は、経済、文化、環境を陥れ、この抜け出すことの出来ない問題は、他の構造的な問題、例えば、機能していない教育制度、メディアとの共謀を招く。海外に住む日本学者でさえ、今の日本の状況を擁護する。日本を愛するあまり、いつもワンパターンに弁明する。扇動的なこの本は、国内でも海外でも、まるでむちのように現代日本の苦境について論争を招いた。そして、ついに日本の政策立案者たちの模範として、国が活気づくことを助長した。

『犬と鬼―知られざる日本の肖像』の執筆を振り返って、その類のないユニークさについて、カーは控え目に語った。「私の本は、大きなトレンドの流れの一部だと思っています。たくさんの日本人作家が、このことについて言及しています」しかし、外国人の批評家として、社会の厳しい非難や検閲を受ける機会が、たくさんの読者層を持つ日本人作家より少ないように感じるという。「本が出版されてから、読者の方から『ついに、言ってくれる人が現れた。ありがとう』と言われました」JTBに所属する人達や、国土交通省のトップの官僚達も、この本を読んでくれたという。『犬と鬼―知られざる日本の肖像』の出版と、他の本が日本に入ってきて、人々は政策について、特に、公共事業について考え始めるようになった。国外では、作者であるカーが想像もつかないような形で波紋を投じているという。2006年に『犬と鬼―知られざる日本の肖像』の中国語版が出版されると、中国政府の共産党の幹部に本が薦められ、社会批判と内密な政策の手段として読まれた。カーが説明する。「もし、中国政府について書かれていたら、検閲に引っ掛かっているでしょう。しかし、日本について書かれているので、中国政府の高官にとって問題ではなく、中国にも日本と同じような問題が山積されていることがわかるでしょう」皮肉なことに、この本は、西洋の一般の人々や日本学を研究する学者から多くの批判を受けた。『日本は間違ったことをしない』と思っている態度は、カーが特に手厳しく非難する人々である。しかし、カーは、ここ何年かで日本における批判する精神が衰えて弱くなったと危惧する。「学者の人達は、私の執筆した本に対して、恐怖感と強い嫌悪を感じ始めています。今でこそ私の本を読むべきです。私が、運が良かったのは、本が出版された時、ちょうど小泉政権が発足された時で、私と同じように建設セクターや他の問題について語っていたからです」

『犬と鬼―知られざる日本の肖像』の出版から7年の時が過ぎ、カーの生活はますます忙しいものとなった。特に、2004年、京都に本社を置く株式会社庵を立ち上げ、会長に就任し、京都の町屋の再生事業を手掛け始める。「それは、とても奇跡的なことでした」カーは語る。「ある銀行員から、京都でも最古を誇る窯について調査するように頼まれたのです。持ち主の方は、どのように保存したら良いか悩んでいました。会計士である持ち主の方にお会いしたのですが、事務所が町屋の中にあったのです。私は、彼女に一つの提言をしました。もし、京都を訪れる人達が、滞在中に町屋を借りる機会があったなら、どんなに素晴らしいかと。彼女はそれを実現させてくれました。残念なことに、窯を保存することは出来ませんでしたが、他の多くの建物を保存することに成功しました」実際、株式会社庵が立ち上げられてから数年経つが、京都の町屋は驚く程の復興を遂げた。京都観光ブームの後押しと、カーや彼の同僚の忍耐強さが、政策に大きな変化を与えた。その一つとして、2007年後半に可決された景観法がある。景観法では、新しい建物を建てる時に、傾斜のある屋根を取り付け、伝統的なスタイルのタイルを使用することが求められている。昔からある建物との調和を図るためである。しかし、京都にある建築物において、まだまだ立ち遅れているとカーは指摘する。「今までの通り、街は破壊され続けています。しかし、その一方で、古い建物の再建と保存が進められています。残念なことに、景観法には、6ヶ月間の猶予期間があり、施行の前に、建物の取り壊しと再建築を加速させています。でも、長い目で見れば、良い一歩と言えるでしょう」

カーの活動手法は入念なあまり遅いと見られるかも知れないが、彼の足跡を辿る人々が増えている。その一人が、『犬と鬼―知られざる日本の肖像』の賛同者であり、東京都知事である石原慎太郎氏である。カーの活動に対する支援は、年々増えてきている。徳島県祖谷地方での活動が評判となり、1990年代後半に県知事より『徳島県の特別親善大使』として任命された。『犬と鬼―知られざる日本の肖像』が出版されて以来、国内で最も多く講演を依頼された一人であり、数え切れない程のメディアからインタビューを受けている。カーが、衝突を避けながら議員に働きかける手法は、日本でも有名なアメリカ生まれの活動家、アルドー・デビト(有道出人)氏と対比して捉えられるであろう。有道氏は、外国人人権問題の活動家で、日本に帰化している。カーとは数年前に、活動家の戦術について討論している。有道氏の戦術(信条を曲げず、大胆不敵に行動し、時に、その戦術が日本の社会で受け入れ難いのではないかと考えられている)について尋ねられると、カーは、物事の捉え方に影響を受けたと話してくれた。「幾通りもの方法があると思うんです。私のやり方は、時代遅れで、過激でなく、旗を掲げて、その後を追って来る人達を待っている。一方で、有道は前線で戦っている。彼のやり方でそのように戦っているのを見るのは、嬉しいことです。もし、私が彼のやり方に倣ったら、間違いなく失敗するでしょう。でも、有道が直面しているような社会問題には、誰かが解決のために立ち上がって、裁判で争わなければなりません」カーが掲げる目標や理想は、多くの人々の関心を集めて離さない。そして、それは伝播していく。彼の怒りは、それと同じくらいの喜びでバランスが保たれている。日本の伝統文化や都市建築、地方の景観の保存に対して、どれだけ戦う価値があるのか、カーの活動を見ていれば自ずとわかってくる。「実は、来年の3月に出版を予定している本があります。タイトルはまだ決まっていないのですが、編集者の方は、『アレックス・カーの京都』と名付けたいようです。本の内容は、街の中の古い建築物の素晴らしさ、そして、それらを保存することの素晴らしさや意義についてなどです。とても気持ちを高揚させる内容になっています」

カーの目標と理想に対する急激な関心の高まりと、近年の活動に対する後押しと励ましは、今までの中でカーを楽天的にさせるが、それでも、彼は現代日本に対して、慎重な見解を示している。「この国に必要なのは、大掛かりな浄化です」彼は宣言する。「日本は、取り壊して捨てなければならない汚染物で汚されています。今、私達が目にしているものは、この方向に進みつつある最初の数歩です」保存事業の成功と、立て続けに入る講演の依頼、文化事業活動、二冊の本の出版と忙しい日々を送るカーであるが、彼のエネルギーと熱心さは衰えることを知らない。カーの理想である日本。それは、徳性を養う建築物、絵のように美しい自然環境、そして、伝統文化の繁栄に満ち溢れた古き良き日本への回顧と言えるだろう。今、多くの日本人の支持を得て、日本で最も卓越した外国人著述家であるカーは、栄誉に溺れることなく、常に問題提起を惜しまない。

Story by Benjamin Freeland
J SELECT Magazine, June 2008 掲載
【訳: 青木真由子】