NIGO

口数は少ないが好感の持てるロンドナー(ロンドン出身)のトビーが、今回、NIGOとのインタビューの通訳を務めてくれた。トビーは、世田谷にあるNIGOのアトリエに足を踏み入れる際に、靴を脱ぐ必要はないと教えてくれた。NIGOのアトリエは、ファッションデザイナーである彼によって美しく統一されていた。日本の習慣にすっかり慣れきってしまった私には、土足で上がることに抵抗があった。床に大きく手足を広げ、アクリル製の牙のある口を大きく開け、今にも喚きそうなトラの敷物の上を、靴を履いたまま歩くというのは、何だか悪い気がした。しかし、ここは、普通の日本の家ではないのだ。ロビーにある約3.5メートルのコンクリートの壁に、まるで十字架のように打ち付けられたLevi’s(リーバイス)を前にして、私は自分が小さな人間のように感じられた。板ガラスの向こう側には、とびきり上等のロールスロイスが、静かに金色を帯びて佇んでいた。地下へと続く螺旋状の階段を下りて行くと、壁には贅沢に飾られたAndy Warhol
(アンディ・ウォホール)の絵が飾られていた。私は、Lewis Carroll(ルイス・キャロル)の『鏡の国のアリス』のアリスになったような心持ちであった。NIGOのアトリエの中を見れば見る程、ますます好奇心をかき立てられた。

少年と青年が入り混じったような愛嬌のあるNIGOの小さな体格は、彼のトレードマークであるだぶだぶのTシャツとジーンズ、そして野球帽を被って、一層際立ち、彼の手首にはめられたどっしりとした腕時計は、まるでフジツボが密集したようにダイアモンドが散りばめられ、彼の細い手首には不調和なほどであった。バーマンが、NIGOに身分証明書の提示を求めようと、誰も責められない。しかし、小柄ながらも、彼は今、37歳である。40代も目前だ。

慎ましやかな田舎の子供から、国際的なファッションデザイナー(そのライフスタイルまでが人気の一つとなっている)への変貌は、これまでに多くの媒体で紹介されている。NIGOは、東京を拠点とするクラブのDJでもある。また、彼はファッションライターでもある。奇抜なアイデアでプロデュースを手掛けたNIGOのTシャツは、時代の流れを反映し、90年代初期の東京で瞬く間に人気となった。当時のストリートファッションに一石を投じ、NIGO自身をポップカルチャーの生きたイコン(象徴)とまで言われるようになった。A Bathing Ape(ア・ベイシング・エイプ)、またの名、Bape(ベイプ)のレーベルの傘下には、カフェ、音楽レーベル、N.E.R.D.(エヌ・イー・アール・ディー)の代表であるPharrell Williams(ファーレル・ウイリアムス)とのファッション・コラボレーション、そして、世界中に展開された多数のアパレルブティックがある。

すべては、1993年に、当時アンダーカバーのデザイナーであったジョニオ(高橋盾)(ジョニオは、クラブを経営し、ファッションに夢中であった仲間の一人であった)から400万円を借りて、最初のショップであるNowhere(株式会社ノーウエア)を原宿にオープンさせたことに始まる。NIGOの手掛けるファッションは斬新でかっこよく、とても高価格にも関わらず、価値あるものとして、ファッション界の人達は何としてでもNIGOの服を手に入れたいと思う程の興奮の渦を巻き起こした。Bapeは、ファッションの歴史の中で決して忘れ去ることができない程に人々の記憶に刻み込まれた。NIGOは彼のあだ名である。(そのあだ名は、原宿にアストアロボットというショップを展開するディレクターによって名付けられた。DJの藤原ヒロシに似ていると感じたからだそうだ。)親が名付けた長尾智明の名前よりも、NIGOの名前の方が2年以上も長く愛用されている。NIGOとは、日本語で二号、すなわち二番目の意味であるが、なぜこのあだ名が定着したのであろうか。「それは、私にもわかりません。でも、本名があまり好きではないのです」NIGOは、やわらかな声で話した。ネガティブな気持ちになることなしに、強く心に訴えるように語ってくれた。「でも、両方の名前とも、私が決めたのではないのですね」

自分の過去を話しながら、落ち着きのある穏やかさで彼は語った。「こんなに事業が大規模になるなんて、想像すらしていませんでした。ただ、蓋を開けてみたらこのようになっていたのです」多くのストリートブランドが不名誉ながらも世間から忘れられていく現状にあって、Bapeが成功した要素として、運とタイミングがあったからだと彼は語る。「ブームがあって・・・何でも作ることが出来たし、そして、売れたのです」

NIGOの成したことは、完璧であった。限定という名の古くからのマーケティング・ツールを利用したのだ。彼はファンをいつでも飢えさせ、デザインに対する歓喜の渦の高さを保つために、限定商品をデザインして売った。それだけではなく、制作した商品の半分以上は、クラブやファッションシーンで最も影響力のある人達に無料で提供した。NIGOが圧倒されるような憧憬を手に入れるには、若い彼にとってたやすいことであった。しかし、彼の初期のファッション帝国における業績を語る時、彼は落ち着きを保っていた。「私は、そんなことよりも、真剣に取り組んでいました」NIGOは、昔を思い起こしながら語る。「いつだって未来を見ていました」

Bapeという名前は、A Bathing Apeの略称として広く知られている。bathing apeとは、ぬるま湯に浸かった猿の意である。そして、その猿は無気力でなまけもののキャラクターを表している。NIGOがこの名前を選んだのは、過度に甘やかされ、欲望にふける若者世代を描きたかったからである。そして、その世代こそ、皮肉なことにNIGOの服をどうしても欲しいと切望する世代でもあるのだ。映画『猿の惑星』が好きなNIGOにとって、ロゴを作るにあたってその映画にインスパイアされたのも、むしろ当然と言うべきであろう。ブランド特有の類人猿の顔をし

た(眉が太くて突起した)エンブレムが出来上がった。

8年前のペプシとのコラボレーションは、Bapeの花形の歴史の中でも大きな前進となった。当時、まだBapeは、アングラな既成社会の価値観を破る若者文化のブランドとみなされていた。大企業とのコラボレーションを成功させるために、たくさんの自己分析をしたという。「アングラではなく、メジャーなデザイナーになりたいと思っていましたが、同時に可能な限り、インディペンデントでありたいとも思っていました」メジャーではありたくないと願うNIGOの仕事への取り組みは、しかし、諸刃の剣であった。大企業であるペプシと共に仕事をすることは、大きな大衆的な成功を収めた。NIGOが以前から願っていた国際的な知名も得た。しかし、その一方で、NIGOはお金に汚いと中傷する中傷者たちからの批判にさらされることを自覚させられた。

「そのような批判については、考えないようにしていました。今では、そんなことにかまっている時間もありません」NIGOは、そうした妬みや負け惜しみに少し当惑させられているようだ。「もし、私がマイアミに行って、Puff Daddy(パフ・ダディ)の住処を見たとしたら、『わー。すごい!』となるでしょうけれど、妬みを感じることはありません。嬉しく思います」NIGOは日本のメディアについて、特に批判に対しては厳しく、ころころと心変わりすると知った。「日本のメディアは、本当にその点酷いですね。とても冷たいのですが、ブランドが海外でも受けていると知ると、手のひらを返したように態度が変わります。国内でのみ活動している限り、それほどメディアは注目しません」

国内で注目され尊敬されるために奮闘するのは、あまり報われないことであるが、NIGOは、スタッフ(NIGOの親しい友人でもある)に囲まれて仕事をすることで、彼の感受性を保とうとしている。「NIGOは、彼の会社の副社長と同じ小学校を卒業している」と、トビーが教えてくれた。「NIGOは、内気な人間ではないが、人に心を開くまでに時間がかかるんだ」Bapeが展開する多種多様な事業が日々成長しているので、友人たちをスタッフに迎え、これまで培ってきた経営のスタイルでは、将来立ち行かなくなるかも知れない。「今は、いっぱい、いっぱいの状態ですね」NIGOが苦笑しながら話してくれた。「でも、友人をスタッフに迎える今のスタイルは、出来る限り続けていきたいと思っています」NIGOがN.E.R.D.のPharrellと共同して立ち上げたBillionaire Boys ClubやIce Creamのアパレルラインは、今までにない程の人気を博している。「これら二つのブランドの誕生は、お互いを尊敬する心から生まれました。私は、Pharrellの支持者です」NIGOは謙遜して語った。

Bapeジェット機を作りたいという話になった時、NIGOの創造することの喜びは溢れんばかりとなった。「カモフラージュ柄のBapeジェット機を作りたいですね。ポケモンみたいなの」彼は生き生きと語った。彼が語っているのは、ANAが期間限定で機体をポケモンで飾った時のことだ。今後の展望について、楽しそうに語ってくれた。「Bapeの商品を機内で、しかも免税で買えて、スチュワーデスもBapeのユニフォームを着るんです」彼は、湧き上がってくる創造の過程を、めまぐるしく回転する頭の中で明らかに楽しんでいるようだった。

様々なファッション事業と原宿にあるヒップなカフェの次には、Bapeホテルを作るアイデアがある。「あ、でも、まだ本当にホテルを構えるかは、考えていません」NIGOは、じっくりと考えながら言った。「Bapeデンタルクリニックなんかをホテルの中に入れられるかも知れませんね」彼は、歯を見せてにっこりと笑った。彼が、オーラルケアに関心があるのは、歯の表面を覆ったダイアモンドの白い輝きが説明している。トビーが話してくれた。「NIGOには、ほとんど本物の歯がないんだ。口の中は大きなブリッジで覆われているんだ」だとしたら、他にタトゥーのように体を改造したところはないのだろうか。「Bapeのロゴを彫ろうと思ったことがあります。でも、両親に反対されました」NIGOは無表情に語る。「私の性格は、どんなことにも飽きないところだと思っています。新しいコレクションを始めたからと言って、他のことに興味がなくなる訳ではありません。つまり、私はオタクなんです」彼は、恥ずかしそうに笑った。

今インタビューをしている4階建てのアトリエの地下室は、NIGOの住処ではない。彼は、六本木に住居を構え、時々このアトリエの最上階で寝泊りする。彼のその他のプライベートな住居の壁には、人気のある人達の写真が飾られている。このアトリエには彼自身やポップのイコン、有名人達の写真が飾られていた。百を超える『Interview(インタビュー)』の雑誌(ポップアートのイコンであるアンディ・ウォーホルが創刊者のニューヨークの雑誌)の表紙が額に入れられて巨大な一つのイメージを作り出し、ウォーホルの作品と共にThe Sex Pistols(セックス・ピストルズ)や70年代のソフトコア・クラッシックとして有名なフランス映画『エマニュエル夫人』のヴィンテージポスターが飾られていた。「私は、映画自体は観てないのですが、そのアートワークが好きなんです」

壁の一面には、大量のセレブとNIGO自身が映ったポラロイド写真がたくさん飾られていた。Gwen Stefani(グエン・ステファニー)は、激しさを強調した表情で、Christina Aguilera(クリスティーナ・アギレラ)は、唇を突き出し、Kanye West(カニエ・ウエスト)は、薄気味悪く笑い、髪や服などがくしゃくしゃのJade Jagger(ジェイド・ジャガー)は、にやにやと笑ったモナリザのシャツを着て写真に納まっていた。セレブと写真を撮ることは、単純に一人の生きたポップ・イコンが、仲間を探しているということなのだろうか。「正直に言いますと、半分位は誰か知らなかったりします」しかし、本来は、残りの半世紀をフィリピンのジャングルで過ごすような原始的な生活を送り、気が遠くなる程長く、混乱するような時間を過ごし、セレブとは無縁の生活を送るべきなのかも知れない。「大抵は、彼らのことが好きです。不愉快な人には会いませんでした」愛想の良い笑顔でNIGOは言った。

日本では欧米のように、おもちゃを集めることは子供のすることという概念はない。私が、選りすぐりのおもちゃのコレクション(壁に掲げられた黒光りするスターウォーズの光る剣を含む)は、子供にとっての楽園となるであろうと話すと、彼の答えは理解に難しいものであった。その説明は簡単なものだ。NIGOは、収集するものをおもちゃだと考えてはいない。そして、おもちゃを収集することと子供とを結びつける私の考えを思いがけないことだと感じている。彼が人生の適齢期を感じ始めていたとしても、彼の冷静さには感心させられた。

「いらないです」子供を持つことについて尋ねた時、NIGOはこのように答えた。トビーの通訳が追いつかない程の速さだった。彼の答えは、速くて短いものであったが、だからと言って、父性愛に欠けているという訳ではなかった。というよりは、何かに束縛されることもなく、外聞をはばかるような秘密もなく、ただ自分自身のことを良く知っていて、自分自身に居心地の良さを感じているNIGOの姿があった。そこには、彼がありのままであることに、堂々としていた。

「もし、私が死んでしまったら、持ち物すべてをオークションにかけようと思うんです」ユーモアを交えながらNIGOは語った。「もうすでに、カタログを作り始めようと考えていたところです」ユーモアは別として、NIGOは父親になることで、仕事への集中度が減るかも知れないという現実に目を向けた理由があると言う。「子供を持つ友人達を見てきました。本能がそうさせるのでしょう。彼らは新しい家族を守ろうとします。でも、ビジネスに対する情熱は減ると思います。優先順位が変わるんですね」簡単に言い表すと、NIGOの人生にとって、父親になることと目的の達成の為にしたい事柄とは両立しないということなのであろう。そして、彼が仕事を第一に考えたい為に父親になることを避けたいのだということを、疑問を呈することなく明らかにするのであれば、彼は、簡潔ながらも繰り返して次のように言う必要性を見出したのであろう。「忙しいから、子供が欲しくない訳ではありません」

Bapeの成功は、NIGO一人だけによる洞察力ある予見でのみ成り立ったことではないであろう。ほとんどの事業家がそうであるように、NIGOの一つの目的を持った断固たる決意が、彼をここまで成長させたのであろう。群馬で育ったNIGOの両親は、共働きであったが、NIGOは幼い頃から一人で過ごすことの多い子供であった。幼い頃から一人で過ごした経験(一人でおもちゃと遊んだりしていた)は、知識や美徳などを植え付け、今の自信につながったのだろうか。

「はい、その通りだと思います。子供の頃の経験は、私にとって、多大な影響をもたらしました。孤独と向き合ったことは、自立心を養いました。実際、今でも、子供の頃の経験から影響を受けています」彼は、ジェスチャーを交えながら、1階にある大きくて奥行きのある部屋で話してくれた。部屋は、凝り性である彼をうかがわせる作りで、すっきりと片付いており、植物やオーガニックなもので飾られていた。「だから、今、私がきちんとしている訳です」彼は、含み笑いをした。

彼の両親は、NIGOがゼロから成し遂げた成果について、どのように感じているのだろうか。NIGOに尋ねてみた。彼は、首を傾け、息を大きく吸い込んだ。それは、日本のジェスチャーで『よくわからない』という意味を表していた。「正直、両親がどのように感じているかはわかりません。日本では、子供が両親に話すようなことではないのです」

インタビューが終わると、もうおいとまする時間であった。NIGOは、次の週にはカリフォルニアに向けて飛ぶ。Bapeのブティックがウエスト・ハリウッドに新しくオープンするので、そのオープニング・パーティーに参加する為だ。NIGOの冒険は、留まるところを知らないようだ。彼は、このようなパーティーに参加することは好きなのであろうか。疑問に感じたので尋ねてみた。「疲れますね」彼は答えてくれた。それでも、彼は前を向いて歩んで行く。

デザイナーからマルチな企業家へと変貌を遂げたNIGOは、流行の発信者であることを声高に避けてきた。流行をキメラ(怪獣)のようだと理解し、その流行を作り上げる大量生産のファッションやライフスタイルの考え方すべてを切り捨てている。しかし、なぜそんなに執拗に流行の発信者であることを強く拒否するのか、興味が湧いた。なぜなら、何の気なしに考えてみても、彼こそが流行の発信者であることは明白であったからだ。「私には、流行の発信者になろうなどという考えはありません。ただ、結果、そのようになってしまっただけです。それでも、私はただ、本当に洋服が好きなだけなのです」素直な意見でないように感じられるかも知れないが、年間8億円を稼ぎ出す世界的なファッションとライフスタイルの帝国のクリエーターは、グル(権威者)として認められたくないようである。しかし、彼が心の底から伝えようとしていることは、感じ取ることが出来るであろう。彼は、どこかロマン主義の寵児であり、彼自身との戦いの中で、こびへつらうことなく、お金のために戦うのでもなく、そこには、愛があるのだ。

Story by Jo Bainbrigde
J SELECT Magazine, August 2008 掲載
【訳: 青木真由子】