バックインアクション:宮本恒靖

2006年6月、いよいよドイツW杯本大会が開幕する。試合を見守るサポーターの睡眠不足は必至だ。サッカーの最高峰であるW杯本大会で、日本代表キャプテンの宮本恒靖選手は一体何を掴み取ろうとしているのであろうか。ヨーロッパ出発を目前に控えたある日、この屈強なディフェンダーをジョン・デイが取材した。

日本代表にとって初戦となる6月12日、選手の緊張は最高潮に達することであろう。

   2002年のチャンピオンであるブラジルと同じグループではあるものの、他グループと比較しても勝敗の見込みが五分五分と評されるグループFに属する日本代表チームは、本大会初戦にてオーストラリアと対戦する。その後の試合展開を決定付ける重要な試合となることは間違いない。ここで勝利をおさめれば、日本が開催国であった2002年本大会での試合結果よりもさらに上を目指せる可能性が出てくる。敗退となれば、代表チームはトーナメント戦一週目にして、一気に窮地に追い込まれることとなる。

   これまでに歩んできたサッカー人生の中でも、とりわけW杯が最も重要なトーナメント戦となることを早い段階から認識してきた宮本選手にとって、本大会初戦は特別な意味を持っていた。壮絶な試合をくぐり抜けて勝ち進んだチームのみが手に入れることの出来るマスコミやサポーターからの注目が、海外チームとの契約のチャンスを促進させる絶好の機会となることを宮本選手ははっきりと理解していた。世間の注目を集める大きな試合での選手のパフォーマンスが、海外チームからの日本選手の招聘につながるのだ。

   4年前のW杯でホスト国を務めた日本は、チュニジアとロシアを下し、ベルギー戦では引き分けとなったものの、グループリーグではグループHの首位を飾った。決勝トーナメントでは、たった一つのゴールによって惜しくもトルコに敗れたが、世界に通用する選手を輩出するサッカー国としてその名を馳せるには、まだ時間が必要であった。

   2002年W杯以降、ヨーロッパの名高いサッカークラブでプレーするために数多くの日本選手が海を渡って行った。海外で活躍する選手には、ミッドフィルダーの中田英寿選手(ボルトン・ワンダラーズ)、中村俊輔選手(セルティック)、小野伸二選手(フェイエノールト)、これからが有望視されているストライカーの平山相太選手(ヘラクレス・アルメロでの目覚ましい活躍振りは記憶に新しい)などがいる。

   日本人選手が海外のチームで活躍するというトレンドの波は、これまでのサッカー人生のすべてをガンバ大阪に捧げてきた宮本選手にとっても例外ではない。日本代表のキャプテンとしての責任をきちんと果たし、サポーターの期待に答えることが出来れば、宮本自身が海外チームへ移籍する可能性は十分に高まる。欧州のクラブによって、一試合毎のプレーを注意深く吟味されているのは、宮本選手も自覚している。欧州のクラブも、プレーに定評があり、チームをより強化出来るディフェンダーを探しているのだ。

   しかし、どのような戦いにチャレンジすることになろうとも、宮本選手は決して動じず、常にプレーにもチームに対しても誇りを持っている。

   「ヨーロッパでプレーすることは、サッカー選手としての私の長年の夢でした。」宮本選手は話す。「より高いレベルを目指すことは、選手にとってはごく自然のことだと思います。私自身、ドイツW杯でそれなりの成績を残せれば、ヨーロッパのクラブが興味を持ってくれるであろうと感じています。」

   彼はこのように期待感を表しながらも、アジアサッカー連盟参加国選手が、ヨーロッパリーグでプレーすることは、並大抵のことではないとも話す。

   「シドニーオリンピックと2002年W杯を経験した今、次のレベルへと自分自身が飛躍するためにも、ヨーロッパでプレーをする時期が来ていると感じています。しかし、日本人のディフェンダー選手にとって、ヨーロッパのトップリーグであるプレミアシップやセリエAなどに所属するチームへ移籍するのは、そう簡単なことではないのも事実です。海外のチームからヨーロッパへ移籍する選手の枠は、まだまだ少ないのが現状です。それに、もし日本人から選手を獲得したいとヨーロッパのクラブが考えているのであれば、ミッドフィルダーの選手から選出するでしょう。

   私の移籍に興味を示してくれたヨーロッパのクラブもあったのですが、諸条件と時期が合わず断念しました。昨年6月にドイツで開催されたFIFAコンフェデレーション・カップに参加し、その後、イタリアのトレビーゾFCからオファーを頂きましたが、ガンバ大阪に残ることを選びました。どうしてもガンバ大阪に残り、Jリーグでの優勝を勝ち取りたいと思ったのです。昨年は、悲願の優勝を勝ち取ることが出来ました。10年間描き続けてきた夢を叶えることが出来ました!」

   宮本選手が力の限り戦い、試合を読む力を備えた天賦の才能を持った選手であることはもはや疑う余地のないことであろう。FIFAのサイトは宮本選手を「ボールを効果的に前へ運ぶことに優れており、“攻撃的に”守る選手で、日本代表のキープレイヤーとなる選手である。」と評している。このことに対して、もはや議論の余地はないであろう。

   身長176cmの宮本選手は、ヨーロッパでプレーするディフェンダーの平均身長と比較すると、明らかに低い。しかしながら、ブラジル出身で、今やリアル・マドリードのイコンとなったロベルト・カルロス選手の身長は168cmである。そのディフェンディング力は世界でもトップレベルを誇る。カルロス選手には、ルールブックの中のディフェンダーに対する身長の必須項目を書き換えたという逸話がある。身長は、必ずしもディフェンダーに必要な条件ではないのである。

   ここ4年の間に、宮本選手は精神的にも肉体的にも成長した。実際、2002年のW杯において、鼻骨骨折のため黒色の顔面保護マスク(このことが、大勢のファンを惹き付けた)を装着して試合に臨んでいたのは、遥か昔のことのようだ。当時、日本代表チームの監督を務めていたトルシエ氏は、宮本選手をディフェンダーのスターティング・メンバーとして起用しなかった。しかし、痛みに耐えながらストィックにグラウンドでプレーする宮本選手の姿が次第にその才能をアピールし、スターティング・メンバーとしての地位を固めていくこととなった。彼の試合に臨む熱意は、多くの欧州クラブが知るところとなり、英国ウエストハム・ユナイティッド等欧州クラブとの交渉に入っているのではないかと確証のない噂が飛び交った。

   宮本選手は今年のW杯について、オーストラリア戦、クロアチア戦、ブラジル戦ともに、前回のW杯以上に苦しい戦いとなると予想している。そして、代表チームのキャプテンとして、チームをまとめていかなければならないのである。

   「大きな国際試合において、どのように世界の強豪チームと戦っていけば良いか、私の心と身体は、今までの経験を通して自然とそれを身に付けてきたようです。」宮本選手は話す。「ペナルティ・エリア付近で敵のストライカーからのシュートを阻止したり、パスを奪取する能力やスキルは、4年前よりも格段に向上していると実感しています。

   日本代表チームのキャプテンとして、苦しい局面にチームが直面した際、どのようにチームをまとめていったら良いか、こういったことも私は学んできました。ブラジルのロナウジーニョのような世界のトップ選手に負けないためにも、スピードとパワーの二つに特に重点をおいて練習をしています。」

   実際、20年前に宮本選手がそれまで続けてきた野球を捨てサッカーに転向したのも、ある南米出身のサッカー界の鬼才に魅了されたからであった。ボールを操るスキルすべてにおいて天才と呼ばれた人である。相手の選手に接近した際の、ボールのコントロールの巧みさ、ドリブルの変速の自在さ、試合の先を見通す能力や判断力の素晴らしさは、ワールド・フットボーラー・オブ・ザ・イヤーを二回獲得したロナウジーニョと勝るとも劣らない選手の一人である。

   「サッカーに興味を抱いたのは、私が9歳の頃のことです。」宮本選手は語ってくれた。「父が家族にビデオデッキを買ってくれて、1986年のメキシコでのW杯を録画してくれたのです。なんと言っても、マラドーナがプレーする姿を観てとても興奮したのを覚えています。それ以来、サッカーが私の人生の中で大きな割合を占めるようになりました。当時、私は大の野球ファンで、小学校ではソフトボールチームに所属していましたが、すぐにサッカーへ転向しました。

    15歳でガンバ大阪ユースに入りました。サッカー選手としてより強くなりたいと思ったことと、質の高いコーチの指導を受けながら練習に励み、ハイレベルな選手とプレーすることで自分自身のレベルの向上を図れると思ったことがガンバに入った理由です。もちろん、ガンバ大阪ユースに入る選手の多くはプロとしてJ1に入ることが目標でしたが、私がユースチームへ入団した当初は、それ程プロになることにこだわりを持ってませんでした。また、他の選手の方が、自分よりも上手いと感じていました。家族も私がプロになることを期待してはおらず、私自身は、大学への進学も考えていました。17歳でU-17の日本代表選手に選ばれて初めてプロへの道を考え始めました。1994年6月、ガンバ大阪が私の入団に興味を示しているとユースのコーチを通じて伝えられました。私は、この機会を逃してはならないと感じたのです。」

   生まれ持った才能を考慮に入れないとしても、プロのレベルでプレーするには、プロ特有の復元力と強い決断力が求められる。若い選手は試合に対する熱意、専心の心、モチベーション、気力が備わっていなければならない。また、成熟した人間として時間管理がうまく出来なければならない。練習や試合、学校や試験、友人や家族と過ごすために費やす時間と、自分自身のエネルギー配分をも合わせて考えなければならない。ある意味、プロ選手として試合や練習をこなすことはまだ簡単なうちに入るかも知れない。選手と学業の両立を図るには、選手として以外の時間の管理に掛かっている。もし仮に、若い選手が自分を取り巻く過度のプレッシャーに打ち勝つことが出来たとしたら、学業との両立の戦いの半分以上は成功したと言えるであろう。

   「私自身、ただサッカー選手として人生を終えたいとは思っていませんでした。両親も私の進学を望んでいました。プロのサッカー選手になることを目標に掲げた後も、私は毎晩ガンバでの練習の後、大学進学の準備のために予備校に通わねばなりませんでした。

   当時の生活は、本当にタフそのものでした。毎晩7時には予備校へ行き、帰宅するのは11時過ぎでした。それから宿題に取り掛かるので、深夜1時前に床に就くことはまれでした。同志社大学に進学した後も、ハードな日々は続きました。ガンバの試合の翌日に授業に出なければなりませんでしたし、アウェイでの試合があった時には、試験を受けるために飛行機で飛んで帰ったこともあります。そんな忙しい日々に出会った言葉が『今を生きる』という言葉です。その後、どんな困難な問題に直面した時も、この言葉に励まされ続けてきました。」

   世界に目を向けると、若い選手はその選手人生の初期の段階で、様々な試合経験を通じて選手としての成長を試み、その基盤が築かれていく。例えば、デヴィッド・ベッカム選手は、1986年に
11歳でボビー・チャールトン・サッカー・スクールへ入学し、サッカー選手としての土台を形作った。宮本選手と稲本潤一選手(現日本代表。英国プレミア・リーグのウエスト・ブロムウィッチ・アルビオン所属。)は共にガンバ大阪の定評あるユース・プログラムを修了している。しかし、両者の受けたサッカー・プログラムは、ヨーロッパのいわゆる「揺りかごから墓場」と呼ばれる手厚い教育プログラムと比べると、まだ程遠いものがある。

   日本の一般向けのサッカー・プログラムに目を向けると、日本の子供達が他国の子供達と共にサッカーをする機会は、海外の子供達に比べて少ない。それによって、試合全体の質の向上も制限されてしまっているとの批判もある。関東圏には、30カ国からの子供達を集めて指導するブリティッシュ・フットボール・アカデミーがある。しかし、このような国際色豊かなサッカー・スクールは、まだ日本では稀有な存在である。

   「子供達にとって、若いうちに色々なサッカーのスタイルを経験することはとても大切なことだと思います。」宮本選手は話す。「国際試合に参加するのも良いでしょうし、数週間、海外でトレーニングを積むのも良いでしょう。子供達により多くの機会が与えられることを願ってやみません。このような機会が増えれば、将来のJリーグは今以上におもしろいサッカー・リーグとなることでしょう。」

   一方で、外国の有能な監督が、日本の試合をよりハイレベルなものへと導いているのも事実だ。2002年W杯において、フランス出身のフィリップ・トルシエ氏が日本代表の監督を務めた。W杯終了後、ブラジルサッカー界の伝説と呼ばれるジーコ氏が監督就任を果たし、現在に至る。

   日本代表の監督に就任した直後のジーコ監督は、その指導がすぐに結果に結び付かなかったこともあり、困難な局面を迎えていた。2006年のW杯予選大会の始まりは、チームのパフォーマンスがあまりぱっとしなかったこともあり、ジーコ監督はスポーツ・ジャーナリストや国民からの批判を浴びることとなった。日本サッカー協会が、旧ユーゴスラビア代表のイビチャ・オシム監督にジーコ監督後任の打診をしたとの噂まで流れた。しかし、予選大会の後半においてオーマンや北朝鮮から勝利を勝ち取った日本は、三度目の本大会出場を確実なものとした。宮本選手は、批判を浴び続けているジーコ監督が絶大なるサポートをしてくれていると実感している。

   「ジーコ監督はサッカーの神として広く知られています。彼は監督に就任した今でも、大変素晴らしいプレーヤーです。代表チームの練習中に、パスをしたり、トラップしたり、シュートしたりするのを見せてくれますが、監督のプレーにはいつも目を見張ります。彼のテクニックには感嘆させられます。また、ただ指示を待つだけでは駄目であり、常に自らの頭で考えることの大切さをアドバイスしてくれます。監督の指導は試合中も、ただ戦術を伝え、指揮するだけではありません。チームとして常にコミュニケーションを図り、自分たちの頭で考えろと諭します。トルシエ監督からも多くのことを学ばせていただきました。それらは、当時の日本代表として必要なことばかりでした。しかし、次のレベルを目指すのであれば、我々は自らの頭で考えて行動していかなければなりません。」

   日本代表が装備も万端にヨーロッパへと旅立つ今、宮本選手は2006年W杯本大会において、何を掴み取ろうと考えているのであろうか。

   「ドイツでの試合結果を予測することは出来ませんが、達成しなければならない目標が一つあります。それは、日本代表が一丸となってベスト8まで勝ち進むことです。並大抵のことではありませんが、必ず果たさなければならない使命であると思っています。2002年の試合結果には、到底満足していませんから。」

Story by Jon Day
From J SELECT Magazine, June 2006掲載

[訳:青木真由子]