黄金の国の夢の跡─平泉

北国では、必ずしもすべての物事が順調に運んでいたわけではなかった。西暦645年、東北地方に「道奥国(みちのおくのくに)」が設けられた。それ以降、この地方に暮らす人びとは「蝦夷(えみし)」と呼ばれるようになった(「蝦」という漢字は「エビ」もしくは「ヒキガエル」、「夷」は「未開人」を意味する)。歴史的に見ると、日本人による日本人に対する差別には並々ならぬものがあり、東北日本に住む人びとも例外ではなかった。
蔑視に加えて、血なまぐさい戦いもあった。奥州藤原氏の祖である藤原清衡は、血族の間の内紛を生き延びたが、失ったものも大きかった。内紛によって妻や父親、それに少なくとも子供の一人を失ってしまったのである。肉親を殺された清衡は、今生きているこの世に、浄土──暴力ではなく仏の教えに支配される清らかな世界──を造ろうと考えた。奈良時代以来、 この地域では金が豊富に産出した。黄金は、清衡による西方浄土(さいほうじょうど)建設のシンボルとなり、同時に日本という国を少なからず誤解させる原因にもなった。
ベネチアの旅行家マルコ・ポーロは、日本には「屋根全体が金泊で覆われた」宮殿があると記述するなど、日本が「黄金の島」であるという伝説をつくり出すことに一役買っている。マルコ・ポーロは実際に日本を訪れたことはなかった。しかしこの記述は、平泉を旅したことのある旅行者からの情報をもとに書かれた可能性が多分にある。奥深い森の中に黄金の国があるというイメージは、あながち作り話というわけではなかったのだ。清衡はまず、中尊寺を建立した。中尊寺は多数の堂塔や僧房、子院からなる寺院であり、現在の福島県から津軽半島まで延びる奥州街道の中心に位置していた。清衡は街道沿いの一町(約109メートル)ごとに、金泊で飾った笠塔婆(かさとうば) (※1)を建てた。
華やかに栄えた往時の平泉は、さぞかし見ものだったに違いない。『吾妻鏡』(※2)に書かれた記録をもとに、今から300年前の江戸時代に作成された地図がある。その地図が、仮に半分でも当時の姿を再現することに成功しているとすれば、そこに描かれた五重の塔や宿坊、無数の寺院、わらぶき屋根の民家などは、エコロジカルで文化的にも恵まれていた在りし日の平泉の栄華を十分にしのばせてくれる。平泉は仏教徒の地上の楽園に限りなく近い場所だったのだ。
これといってほかには特徴のない町なのだが、平泉には今でも洗練された雰囲気が漂っている。それはおもに、中尊寺の存在や、浄土庭園(※3)の存在、数々の考古学的な発掘調査とその成果によるものと思われる。杉林に囲まれた有名な「大泉が池」がある毛越寺(もうつうじ)では、狭い空間に美が凝縮された一般的な日本庭園とは異なって、ゆったりとした空間を感じることができる。かつては壮大な伽藍を誇っていた毛越寺だが、礎石や土台を除いて、塔や本堂など、当時の建造物は何も残っていない。
にもかかわらず、毛越寺の景観には非常に大きな価値がある。850年ほど前の平安時代に造園された毛越寺の浄土庭園は、国内でもっとも保存状態のよい日本庭園だといえる。池の州浜と中央の小島は後世のものだが、石の配置は造園された当時と同じ状態で残されているものもあり、当時の景観を容易に想像することができる。特に印象深いのは「亀島」と呼ばれる石組みだ。水平方向に広がる池畔のラインとは対照的に、背の高い石がまっすぐ立つように配置されている。この石がこの庭園の中心だといえる。池の北西からは、水を取り入れるための水路が引き入れられている。平安時代の貴人たちは、流れに盃を浮かべ、それが流れて来る前に和歌を詠んで遊んだ。
毛越寺から中尊寺までは、徒歩での移動がおすすめだ。ほとんどの観光客は、JRの線路と並行して走る国道を使う。しかし、民家の間を抜けながら、緑に覆われた3キロメートルに満たない静かな小道を登って行った方が、まちがいなく楽しめる。この道は、かつてこの地が繁栄の地であったことを感じさせてくれる。
木々に覆われた小道を歩いて行くと、蓮が植えられた場所に出る。この蓮は、発掘された古い蓮の種子を育てたもので、「中尊寺ハス」と命名されている。蓮は仏教のシンボルであり、神聖な伽藍へと続く参道の入り口にふさわしい光景だ。
中尊寺金色堂のご本尊は、阿弥陀如来(無量光仏)。この仏様は、悪しきものから衆生を救ってくれる。金色堂には膨大な量の鉱物資源が使われていて、きらきらと輝いている。1124年に造立された金色堂は、小屋梁や柱の内側に須弥壇(台座)があり、貝の真珠層で象眼が施されたり、金属の細工物や金銀蒔絵で飾られたりしている。須弥壇上には、金箔が貼られたご本尊の阿弥陀如来が中央に座し、それを囲むように地蔵菩薩が列立し、四天王の一員に数えられる増長天(ぞうちょうてん)と持国天(じこくてん)がにらみをきかせている。これらはすべて、前九年の役と後三年の役における犠牲者の霊を慰めるためのものであり、同時に、ここを訪れた人を西方浄土に誘うためのものでもある。
中尊寺はなぜ、小高い山の上にあるのかと疑問に思う人もいるかもしれない。交通手段が発達していなかった時代には、山道を登る行為が、日常的な旅を巡礼の旅に変えるための仕掛けとして機能していたのではないかと思われる。参道には神聖な雰囲気が色濃く漂っているが、他の聖地と同じく、有料の駐車場や土産物屋、自動販売機、コーヒーや甘酒を売る茶屋がそこかしこに設けられている。だがそれでも、緑に囲まれた境内に入ると、歴史の重みや信仰の重みを感じることができる。
俳人・松尾芭蕉と、旅に同行した弟子の曾良がこの地を訪れたとき、二人は言うに言われぬ寂しさを感じた。平泉の栄枯盛衰、諸行無常ぶりに心を動かされた芭蕉は、藤原三代の栄華は今となってはいっときの夢に過ぎず、「笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ」と書き残している。芭蕉たちのそんな気持ちを和らげてくれたのは、真新しい覆堂(おおいどう)に囲まれた光堂(金色堂)だった。それを見て心を新たにした芭蕉は、次の句を残している。

五月雨の 降りのこしてや 光堂

一見すればすぐわかるこの地の歴史的・文化的価値を考えると、最近、平泉の世界文化遺産への登録延期が勧告されたことは、不思議でならない。おそらく、文化的な文脈において適切な評価がなされたかったことが原因ではないかと推測される。たとえば、極楽浄土の世界を再現するために850年前に造られた庭園が、どれほど大きな価値をもっているかを理解できなければ、毛越寺の浄土庭園は単なる公園と変わらないように見えるだろう。しかしながら不可解なのは、ユネスコの世界遺産委員会のメンバーというのは、まさしく文化遺産に関する第一級の専門家たちだということである。
最近、平泉の歴史と文化を紹介する「平泉文化遺産センター」が町内にオープンした。その名称には、2011年にふたたび世界遺産への登録を目指そうという意気込みが感じられる。日本では、何かを行うときは必ずと言っていいほど、その背後に経済的な動機付けが働いているが、平泉の場合は文化的なプライドが主たる動機になっていると思いたい。日本の中でも、文化や自然、あるいは料理などに関する資源が乏しいところでは、地域の活性化は難しいという考え方が一般的になりつつある。一方、平泉の文化遺産センターでは、展示物のすべてに日本語と英語で丁寧な解説がつけられ、必要とあれば学芸員がいつでも解説を行う体制が整っている。平泉にはこのほかにもいくつかの博物館・美術館があるが、町の歴史に関する情報を得るには、このセンターが唯一にして最良の施設だといえる。センター内には、中尊寺で咲いた蓮の花 (仏教における浄土のシンボル)を展示用に加工したものが飾られている。
平泉周辺では、あちこちで発掘が行われている。旅の途上、たまたま駅からほど近い大規模な発掘現場に出くわした。調査員やボランティア、帽子をかぶった年配の婦人たちが、遺跡の地表から取り除いた土を運び出していた。その後、この遺跡は12世紀後半に奥州藤原氏第3代当主の藤原秀衡が建立した無量光院の遺構だということがわかった。無量光院は京都の宇治平等院鳳凰堂を模倣して建てられた寺院であり、発掘作業が進められているのは浄土庭園の跡だった。
平泉に行くのなら、猊鼻渓(げいびけい)への小旅行もおすすめだ。ここでは、木造の小舟で渓流下りを楽しめる。金色や褐色の鯉、アユや小魚の群れを眺めながら、蒼く染まった峡谷の清流を下る。川面に揺られながら船頭の話に耳を傾けていると、やがて、船頭が唄う岩手の民謡が谷間に響き渡る。乗り合わせた観光客の一人が、渓谷の向こうには何があるのかと船頭に問いかけた。すると、公営の団地とセメント工場がある、という答えが返ってきた。渓谷の断崖は、それらを隠す「ついたて」でもあったのだ。

旅行情報
JR東北新幹線の一ノ関駅から平泉までは、在来線かバスを使って8キロメートルの道のり。猊鼻渓行きの列車も一ノ関駅から出ている。平泉駅の隣駅である一ノ関駅周辺には、ビジネスホテルが何軒かある。そこに滞在する人もいるようだが、その際は注意が必要だ。というのも、一ノ関駅は新幹線を利用するには便利だが、駅の周辺には特に何もない。平泉駅の西側には、気持ちよく宿泊できる「志羅山(しらやま)旅館」(電話:0191-46-2883)がある。平泉駅構内には観光案内所があって便利だ。改札を出て右側の建物にも、別の観光案内所がある。駅から毛越寺に至る通り沿いには、小さなレストランが多数ある──たとえば「ソウル食堂」(焼き肉)、少し高級感のある「曲水亭」(日本料理)など。
平泉文化遺産センターの入館料は無料。

祭り・イベント情報:
5月の第4日曜日、毛越寺で「曲水の宴(ごくすいのえん)」が開催される。平安時代の装束に身を包んだ参加者たちが、庭園の遣水(やりみず)に盃を浮かべ、流れに合わせて和歌を詠む。この行事は「春の藤原祭り」の一環として行われる。藤原祭りでは、このほかにも時代行列や稚児行列が披露され、舞や能が奉納される。

毛越寺では6月下旬に「あやめまつり」、9月中旬に
「萩まつり」が催される。

1月20日、5月5日、11月1~3日、毛越寺で「延年の舞」と呼ばれる奉納の舞が、たいまつの明かりの中で演じられる。

Story and Photo by Stephen Mansfield
J SELECT Magazine, January 2010 掲載
【訳: 関根光宏】