花の美力 華道家 假屋崎 省吾

豪奢なシルクの中国風ジャケットを身に着け、トレードマークである肩下まで伸ばした金髪が美しい假屋崎省吾さんは、彼の美学である「美は美を生む」を具現化すべく、その意図するものを追い求めてきた。
假屋崎省吾さんの美学は、彼がテレビなどで人気者になるずっと以前から、彼の中に根付いているものであった。それは、彼が華道家として名を馳せる以前から、彼の中に息づいているものである。
東京の郊外で幼少期を過ごした頃から、彼はすでに美の魅力に引き込まれていた。他の同世代の少年のように、野球を楽しむような少年とは違った。48歳となった假屋崎さんにとって、美と彼自身とは同義であり、間断なく永遠に続き、決して断ち切ることの出来ない共同体なのである。
「両親はいつもガーデニングを愛し、私も子供の頃から両親を手伝って庭いじりを楽しんでいました。」2006年11月、目黒雅叙園で開催7回目を誇る『華道家 假屋崎省吾の世界』展での忙しい合間を縫って、假屋崎さんは話してくれた。「私は、いわゆる園芸少年でした。花はどれも美しく、その当時からずっと花に囲まれて生きてきました。花について、両親からたくさんのことを教わりました。高校、大学時代と、花は私にとって趣味と言えるものでした。でも、大学生となり、将来について考え始めた頃、今まで育ててきた花々に何か意義のようなものを与えることは出来ないだろうかと考えるようになりました。その頃から私の花に対する興味は、ただ育てることから、花を生けることへと変化していったのです。このことがきっかけとなり、花の学校に行くことを決めました。」

花の陰 赤の他人は なかりけり
—-一小林一茶

今日、生け花あるいは華道は、書道や茶道と並び日本の伝統文化の中でも重要な位置を占めている。華道の歴史は6世紀まで遡る。当時の寺院では、祭事の際に信心の証しとして花々や木々を天に向けて生ける習わしがあった。その後、数世紀に渡り、華道は様々な変遷を遂げ、伝統的な形態からより現代的な表現へと変化していった。最も顕著な変化は、15世紀に華道の決まりごとが簡略化され、芸術としての華道が社会的階級を越えて、広く民衆によって楽しまれるようになったことである。
歴史が我々に示してくれることは、古き伝統というものは不変のものである一方で、畏敬の念に満ち、また流転のものであるということである。さらに、華道の歴史は絶え間なく進化を遂げている。假屋崎さんのように、幅広い層のファンから支持を得、またタレントとして活躍する華道家も。
「花は本当に自由なものです。」假屋崎さんは語る。「なぜなら、自己を表現するものだからです。そこにはなんの制約もありません。数学で一足す一は二ですが、花の世界では答えは無限に存在します。美しく足らしめる、その約束さえ念頭に置いていただければ、貴方の好きなように表現していただいて構わないのです。美は力なのです。花を始めた当初、私の表現はよりミニマルなものでしたが、今ではそのスタイルは徐々に変化を遂げ、より豪奢で華やかで人々に何かを訴えかけるデザインであることを心がけています。さらに、わびさびの概念を作品に取り入れ、個人的な体験が増えれば増えるほど、私の作品スタイルはより多様なものへと変化しています。花を始めた頃は、一つの表現スタイルしか見出せませんでしたが、今では、私のアートとしての表現は無限に拡がっていると感じます。より多様な世界、様々な見地に立った表現をしていきたいと思っています。」
日本独特の美の概念として知られる「わびさび」は、假屋崎さんの作品に隠された意味や神秘について、紐解く鍵となるかも知れない。假屋崎省吾さんの作品をより深く味わっていただく為に、「わびさび」について触れてみよう。
作家レナード・コラン氏は、彼の著作『Wabi-Sabi: For Artists, Designers, Poets & Philosophers』の中で、「わびさび」をはかない無常さを受け入れる日本の美意識を表すものとして言及している。日本人は、美を永久的なものではなく、不完全で未完なものとして捉えているのだという。
「わびさび」の専門家であるリチャード・R・パウエル氏は、コラン氏の考えに同意し、以下のように述べている。
「わびさびは、何ものも永遠には続かない、何ものも完結しない、何ものも完全ではないという三つの真実を受け入れることによって、世の中のあらゆる真理を育んでいくことである。」
わびさびをその意義に忠実に訳すことはほぼ不可能に近いと言える。しかし、「わび」は、質素や簡素であること、新鮮であること、静寂、そして、そこはかとない優美さを表している。また、「さび」は、年とともに養われる美の情操、そして、平穏で安らかな心情を表している。つまり、生命及びその永続性は、年月を経て形成される風格と品性の中に見出される。わびさびの美学とは、何も永続しない、何も完結しない、何も完全ではないということを受け入れ理解するなかで、憂いを帯びた憧れ、憂鬱な痛み、希望に満ちた悲しみを生ぜしめるものである。これらの感情は普遍的なものであるが、イデオロギーとしてのわびさびは、本質的に日本文化特有のものであると言える。しかし、伝統的な日本の生け花の形態を評価しつつも、それは何も日本にのみ限定した考えではない。假屋崎さんは、このことについて次のように語った。
「生け花は、日本文化の伝統的一側面ではありますが、その人気は今や世界的なものです。生け花という言葉自体、今、世界的に認知されています。そして、芸術としての生け花の形態がとても神秘的で多くの可能性を秘めている為、生け花をたしなむ人それぞれが、思いのままに自己を表現できれば良いのだと思います。自然は、花を生み出しました。花は、それだけで完璧な美です。しかし、生け花をたしなむ私たちは、そこからさらに、多くの人たちが楽しめるような新しい美を生み出すのです。生け花は日本で誕生しました。しかし、世界中の多くの人々が花を愛してやみません。西洋のフラワーアレンジメントと日本の生け花とでは、基本的な流儀に違いはあるでしょう。例えば、その生け方一つ取ってみても、西洋のものはより装飾的である一方で、日本のものはより調和的と言えます。また、流派ごとの考え方の違いは、曖昧になってきています。華道家として、私は様々な国を訪れ、それぞれの国の違いについて学ぶことの大切さを学びました。空間、花、花器、人—これらは、生け花あるいはフラワーアレンジメントにとって必要不可欠な要素です。外国の空間に相応しい花があり、また、日本の空間に相応しい花があるのです。とは言え、生け花は自由なものです。生け花は変わりつつあります。どなたでも思いのままに表現できる生け花を、より多くの方達に楽しんで頂きたいと思います。生け花は、己と向き合う場でもあります。花を生ける方の興味関心にすべてがかかっています。」

“私の考えでは、花のない部屋は魂のない部屋だ。
しかし、ほんの小さな花器に生けられた花が、
魂のない部屋を生き返らせるのだ。”
−ヴィタ・サックヴィル=ウエスト

幾年にも渡る修行の日々と創造あふれる才能が、假屋崎省吾さんの名を世間に知らしめることとなった。彼の経歴はそれを物語っている。クリントン元大統領来日時の歓迎式典や天皇陛下御在位十年記念式典での花の総合プロデュース、ベストセラー本の出版、そして、毎年4万人以上の観客を惹きつける目黒雅叙園での展覧会などその活躍は多岐に渡っている。目黒雅叙園での『華道家 假屋崎省吾の世界』展では、かの有名な百段階段の各空間をより一層引き立たせるような花々で装飾が施された。
假屋崎さんは、ただ独り善がりの流儀を押し付けるようなことはしない。彼は、まったくの初心者にも広く門戸を開いている。そして、新年に相応しい花の生け方について、未経験者にもすぐに試せるアドバイスを頂いた。
「まずは、お花を生けてごらんなさい。浴室でも、寝室でも、玄関でもどこでも良いのです。それは、貴方の喜びとなるだけでなく、自宅を訪ねてきたお客様も気付かれて、『まあ、なんてきれいなのでしょう!』と声をあげられるはずです。そこから、さらに芸術としてより深く追求したいとお感じになられるかも知れません。さらに学びたいとお感じになられるかも知れません。また、自分なりのやり方でお花を生けたいと思われるかも知れません。どのような道を歩まれようとも、大切なのはそれを楽しまれることです。」
「お正月には、それに相応しい色のものを選びましょう。赤や白、金や銀が良いでしょう。花器を選ぶ際には、日本製のおしとやかな感じのもの、あるいはお好みで明るくカラフルなものを選ばれるのも良いでしょう。季節の花や輸入された花は、一年中手に入れることが出来ます。いくつか新年に相応しい色を選ぶことによって、お正月の雰囲気を作り出しやすくなります。」
「また、季節感を出す他の方法としては、その季節にあった小物を用意するのも良いでしょう。例えば、お正月には、白の和紙を使ったり、水引を使ったりするのも良いでしょう。」
水引とは、細く切った和紙をよじって紐状にしたものに、海草を原料とする糊と白粘土で固めたものである。紐が形作られると、それは木綿で磨かれ、絹や光沢のある紙で包まれる。幾本もの水引が組み合わさると、それは見事な色の結合である。水引はよく贈り物に添えられる。それは、贈り手の心と受け取り手の心を結ぶものと信じられているからだ。
美しい生け方が最も人々の心を惹きつけてやまないのは、もはや言うまでもない。さらに、仮屋崎さんは、日常生活で花を生けるにあたって、役に立つアドバイスを下さった。
「是非、貴方の好きなお花を選んで生けてください。最近、淡く控えめな色が好まれるのは興味深いことです。緑の葉を使うのもお勧めです。長持ちするので、経済的です。」

“花開くところに、希望も生まれる”
−レディー・バード・ジョンソン

活躍の幅の広い假屋崎さんがいる限り、生け花は芸術として、様々な試みがなされていくことであろう。花は、数多くの芸術の中でも特別な位置を占める。それは、假屋崎さんが活動を通して様々な分野のクリエイターとコラボレートしていることに裏打ちされる。
「花と結びついた芸術は、数え切れないほどにあります。例えば、ファッション、文学、絵画、音楽、料理、建築などです。私は、こうしたあらゆる芸術や伝統文化とコラボレートしていきたいと思っています。音楽も好きなので、音楽家の方たちと共に、ステージで私の花を表現したいですね。これまで、ピアニストのフジ子ヘミングさんやギタリストの村治佳織さん、チェリストの古川展生さんなどとコラボレートしました。狂言師の野村萬斎さんともコラボレートしたことがあります。もっとたくさんの芸術家の方たちとコラボレートし、多くのインスピレーションを得たいですね。」
假屋崎省吾さんの未来は無限に拡がり、そこには限界など存在しなさそうだ。幼少の頃に抱いた美への憧れを損なうことなく持ち続け、より深い美の探求へと繋がっていく。彼は、歴史に名を刻むことに興味はない。むしろ、花を残したいと思っている。
「美は、私の奥深くへ入り込み、それが私の仕事の源となっています。これからも美しいものを生み出していくことは、私の使命であると感じています。名を歴史に残したいとは思いませんが、300年後も、花が人々を輝かせ、元気にさせるものであってほしいと願います。地球の温暖化や自然破壊、戦争など地球上には様々な問題があります。もし、世の中が平和であるなら、花はそこかしこに花開くでしょう。我々の未来がそうあってほしいと願ってやみません。」

Story by Jon Day
J SELECT Magazine, January 2007 掲載
【訳: 青木真由子】