その魂が料理の融合を生んだ

数々の賞を受賞したロイ・ヤマグチ氏は、新鮮なアジアの食材とヨーロッパの斬新な料理法を融合させ、傑作と言える料理を数多く生み出してきた。そして、その独自の料理法は、世界中から絶賛を浴び続けている。エリオット・サミュエルズが取材する。

大抵のシェフは、初期の段階で、何をすべきで何をすべきではないかを教わる。30年以上に渡ってホスピタリティ産業で働いてきたヤマグチ氏にとって、シェフ人生において最後に目指すべきものとは、「独自の方法」を探ることに尽きると強く言い切る。

「ロイ独自の方法」とは何であるか。結論を急ぐ前に、ヤマグチ氏の主張は、ありがちなセレブシェフが軽々しく口にするようなステレオタイプな言葉などとは全く違うということを一言添えておきたい。「ロイ独自の方法」とは、20年以上に渡って培って編み出した「ユーロ・アジアン」と呼ばれる東洋西洋の様々な料理を融合させた料理法であるのだ。

六本木ヒルズの「ロイズ・トーキョー・バー&グリル」開店に合わせ来日したヤマグチ氏は次のように語った。「我々は様々なヨーロッパのソースを作り出し、アジアの濃厚な味と融合させます。どのような調理をしようとも、必ずはっきりとアジアの料理であると認識してもらえるような料理法を試みています。それが味付けであろうとも、ソースであろうとも、醤油でソテーされた野菜であろうとも。」

彼のユニークな調理法は、変化に富んだ育ち方によるところが大きいと言う。マウイ生まれの軍人であった父と沖縄生まれの母の間に生まれたヤマグチ氏は、1956年に東京近郊の米軍基地の近くで出生した。最も印象に残っている幼少時代の思い出は、ハワイに住む祖父母を幾度となく訪ねたことであった。1940年代、ヤマグチ氏の祖父はマウイ島ワイルクの小さなレストラン・バーのオーナーで、地元スーパーマーケット産業の草分け的存在であった。そして両親からは、料理の正しい作法を教わり、それが自然と根付いていく環境にあった。

「父はどんな料理も家で作り、それを眺めるのが楽しくて仕方がありませんでした。当時から日本でもハワイでも、少しずつ料理を作り始めていました。」ヤマグチ氏は言う。

ヤマグチ氏の料理に対する愛情は、種が蒔かれ順調に芽を伸ばしていった。とは言え、1974年にニューヨークの一流料理学校「カリナリー・インスティチュート・オブ・アメリカ」で学ぶまでは、正式に伝統的な料理法のトレーニングを受けたことはなかった。「カリナリーに入学した時、それまで中途半端であった料理に対する信念が、確かなものとして固まって行くのを感じました。料理は私の天職であると気付きました。今までに行ってきたこと全てがとても自然なこととして感じられました。」

1976年にカリナリーを卒業するとヤマグチ氏はロサンゼルスに移り、見習い調理師として、レスコフィエ、レルミタージュ、マイケルズという三つのレストランで働き始める。「見習い期間を終えたら、いよいよ独立です。でも、既に誰かやっているようなことは、正直やりたくはありませんでした。いつでも『これこそが自分流だ』と言えるようなことをやらなければならないと、自分自身に言い聞かせていました。」

「日本で育った環境で培ってきたこと、料理学校や見習い期間で学んできたこと、今まで経験してきたことの全てを持ち寄って、自分にしか作れない料理法を考えようとしたことは、私にとってごく自然のことでした。人生を振り返った時、シェフとしての骨組みを作ったのは、料理学校で学んだことであるのは間違いないと感じています。しかし、同時に私の作る料理は、アジアの食材や、特に私の舌に記憶されているアジアの味に深く影響を受けているのも事実です。私の記憶の味は、まさに父がいつも食卓に用意してくれた味に他ならないからです。」

ヤマグチ氏はまるで神経外科医が手術を行う程の精密さで、彼の知るすべての味の記憶を一つの料理へとつなぎ合わせていく。彼はどんなに贅沢なヨーロッパのソースとアジアの濃厚な味を融合させても戸惑うことはない。なぜなら、それらの味は、彼にとって大変馴染みのある味ばかりであるからだ。

「どのような文化や国の料理でもその真髄を理解できれば、他のどのような料理と融合させても恐れることはありません。例えば、私はインドの食材や調味料を使うことはあまりありません。なぜならそこに含まれている味の全てを、あまり理解していないからです。タイや中国は何度も訪れたので、私の料理にタイや中国の味を感じられると思います。これらの味は私も馴染みが深く、記憶に深く染み込んでいるのです。私の記憶にその味が染み込んでいるからこそ、安心してフレンチ・ソースと融合させることが出来るのです。その味がシェフの体に染み込んでいないと、人々はその料理の味に困惑するのだと思います。」

ヤマグチ氏は見習い期間終了後もロサンゼルスに残り、その後シェラトン・プラザ・ラ・レイナのル・グルメにあるル・セレーヌのエグゼクティブ・シェフに抜擢される。

1984年には、「385ノース・オン・ラ・シエネーガ・ブルバード」というレストランをオープンし、それまで温め続けてきた独自のユーロ・アジアン料理の提供に乗り出した。料理評論家は真っ先にヤマグチ氏の生み出す料理に飛びつき、その一品一品に凝縮された多彩な味は、瞬く間に注目の的となった。

ハワイ・カイの「ロイズ」フラッグシップ店のオープンから今日までに、グアム、香港、カリフォルニア、シアトル、フェニックス、フロリダ、ニューヨークなど世界中に30店舗以上ものレストランを開いた。

ヤマグチ氏にとって東京は特に惹きつけられる街であり、彼の料理の原点を育んだ場所に感謝の気持ちを込めて出店することを長年願ってきた。13年前、東京で初の「ロイズ・トーキョー・バー&グリル」がオープンした。ヤマグチ氏の生み出す絶妙な味と世界の熟成されたワインを味わえる場所として、スーツを着たエグゼクティブ層のみならず広く多くの人々からの支持を得た。

昨年10月、青山からより贅沢な香りの高い六本木ヒルズへの移転を果たした。店内の窓の正面には東京タワーがそびえ立ち、まばゆい夜景は格別である。新しく生まれ変わった「ロイズ・トーキョー・バー&グリル」は、人々を魅了する空気に包まれ、最新の流行を体感できる豪奢な場所にあるのだ。

ヤマグチ氏は、「ロイズ」で提供する全ての料理がカスタマーを満足させていると確信しているうちは、そのスタイルを変えないと言う。それは数々の受賞を経験した自らが生み出す味への誇りでもあるのだろう。彼は東京店がアメリカにある「ロイズ」の他の店舗の単なるコピーであってはならないと感じている。そして一方で「ロイズ」本来の味に誠実でなくてはならないとも考えている。

「ロイズのレストランにはそれぞれ違った個性があります。その場所と時代の空気を読み取り、それに一番相応しいメニューを生み出しています。沢山の人々にロイズの料理を楽しんでいただき、口にした途端に思わず声がこぼれてしまうような、そんな驚きと発見と感動を体験して欲しいのです。いかに素晴らしい料理を食べたとしても、その時に味わった味そのものは案外忘れてしまうものです。しかし、その料理を味わった時の感動は、いつまでたっても記憶に留まるのです。」

様々なものが溢れ返る東京のようなマーケットにおいては、一時的な成功で終わるのを避ける為に、常に自分自身の殻を破る努力が必要であるとヤマグチ氏は話す。「もし、ただ流行を追っているだけであるのなら、自分自身に誠実ではないことになります。流行などを追うよりも、常に新しい自分を創っていく努力をし続けなければなりません。ロイズには、我々が長年をかけて築いてきた土台があり、またお客様に提供している料理に信念と誇りを持っています。簡単に自分たちのスタイルを変える必要はないと思っています。」

料理の根底にある能力は、その人自身の中にあり、それは目指して得るべきものでも、得ようと思って手に入れられるものでもないとヤマグチ氏は主張する。「それは、その人が生まれ持ったもの能力です。料理に対する情熱を持って生まれて来ているのです。その情熱を持って生まれてきた人にとって、料理は言わば第二の命なのです。触れることの出来ないこの情熱と出会う時、例えば人に親切にしたいと思う時、お客様と交流したいと思う時、そして、何よりも人を喜ばせたいと思う時、料理は様々な形となって現れます。それは、自然と体から溢れ出るものなのです。」

Story by Elliott Samuels
From J SELECT Magazine, January 2006掲載
[訳:青木真由子]