鎌倉の郊外を歩く

春流高似岸 (しゅんりゅう きしよりもたかく)
細草碧於苔 (さいそう こけよりもあおなり)
小院無人到 (しょういん ひとのいたるなく)
風來門自開 (かぜきたって もんおのずからひらく)

北条時頼

Chinese bellflowers bloom in the fore garden of Zuisen-ji a temple occupying a very naturalistic setting.

この詩は、詩人であり、武士であり、晩年は出家して禅僧になった北条時頼が残した漢詩である。自然と人工物が見事に調和・共存する様子を描写したこの詩は、鎌倉の北東部に位置する大寺院の一つ、建長寺の古いパンフレットに掲載されている。

夏目漱石の小説『こころ』には、物語の語り手が鎌倉で過ごした日々を回想する場面がある――「私は毎日海へはいりに出掛けた。古い燻ぶり返った藁葺の間を通り抜けて……」。現在の鎌倉では、古びたコンクリートの街路、互いに調和のとれていない建物、車の騒音、ゴミが散らかった灰色のビーチなどを目にしたり耳にしたりすることはできても、藁葺き屋根の建物や、薪の煙が立ち上る姿を海岸沿いで見つけるのは難しいだろう。しかしそれ以外の場所に目を向けてみると、豊かで、なおかつひなびた雰囲気をも漂わせる自然の姿を目にすることができる。

鎌倉と京都は互いにかけ離れた街かもしれないが、市街地の周縁部に広がる山野では、二つの古都に類似点が見られる。鎌倉の北東部には、切り立った崖や山林にへばりつくようにして、多くの寺院がある。それらは山の斜面に沿って一列に並ぶように建てられている。その様子は、京都の東縁に連なる山地に、堂々たる寺院や庭園が立ち並んでいる様子とよく似ている。

鎌倉の市街地と山間部との境目には、金沢街道が通っている。この街道は、塩やそのほかの重要な産物を鎌倉に運ぶための輸送路として使われていたため、かつては「塩の道」と呼ばれていた。杉本寺は歴史のある寺である。華族出身の日本人と結婚したイギリス人女性・陸奥イソは、1918年に出版した著書のなかで、「あまりに古く、なかば荒廃しつつある」寺だと書き記している。険しい石段の途中にある仁王門には、一対の仁王像が立っている。目をカッと見開き、怒りの形相をした仁王を前にすると、たいていの仏敵は恐れをなして逃げ出してしまうだろう。杉本寺から少し歩くと、浄妙寺の入り口が見えてくる。長い歴史をもつ寺だが、建物は比較的新しいようだ。

The delightful Nameri River, little more than a purling brook in places.

すぐ近くには、「竹の寺」として知られている報国寺がある。その敷地の多くは売却され、規模が小さくなってしまったが、竹を擁する質素な庭はそのまま残っている。茶席からの眺めは最高で、竹の庭を眺めながら抹茶をいただくことができる。報国寺に行くには、石がごろごろと転がっている滑川(なめりがわ)の上流にかかる橋を渡る。境内を取り巻いているうねるような崖には、穴が掘られ、古い時代の僧侶の遺骨が納められている。作家の久米正雄や川端康成は、この寺に短期間寄宿していたことがある。重厚な雰囲気が漂う川端康成の小説『山の音』は、ここで執筆された。1954年には成瀬巳喜男によって映画化もされている。報国寺近くの道沿いには、小津安二郎の映画『東京物語』のなかで、女優の原節子が登場するシーンの撮影に使われた家々がある。報国寺から続く道を少し上っていくと、旧華頂宮邸がある。1929年に建てられた華頂宮邸は、昭和初期の人々が思い描いていたチューダー様式の邸宅のイメージをもとに建てられた。前庭には大きな石灯籠が立ち、日本的なものに対する強い思いも感じられる。

early summer mornings see lotuses bloom at Myoo-in.

「塩の道」に戻ってそのまま東に進むと、鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経の発願によって、祈願寺として建立された明王院が、にわかに視界に入ってくる。南北に延びる交通量の多い「塩の道」から少しそれたところにある明王院は、まるでここだけ車の騒音を消し去ったかのように静かだ。切り立った崖に寄り添うようにたたずむ明王院は、茅葺きの屋根をもつ木造建築であり、ひなびた雰囲気をかもし出している。創建は1235年。仏道を守護する不動明王がまつられ、中国の風水で悪鬼が出入りすると考えられている北東の方角(鬼門)を守っている。筆者が明王院を訪れたときは、大きな鉢にたくさんのハスが植えられていた。秋にはヒガンバナ(曼珠沙華)やケイトウ(鶏頭)が一斉に咲く。6月にはアジサイを一目見ようと大勢の観光客が訪れる。

緑あふれる鎌倉での一日を締めくくる場所として最適なのは、瑞泉寺だ。臨済宗に属する瑞泉寺は、高僧・夢窓疎石によって1327年に創建された。夢窓疎石は非常にすぐれた禅僧であり、庭園デザイナーでもあった。瑞泉寺は鎌倉の北東に位置する閑静な高級住宅街・紅葉谷(もみじがやつ)にある。境内にある開山堂には、小さな木造の夢窓国師坐像(重要文化財)があるらしいが、残念なことに一般には公開されていない。

Blossoms at Zuisen-ji temple, often called the “flowering garden of Kamakura.”

瑞泉寺の境内は谷全体を見渡せるように広がっており、周辺の木々や山々の眺望を楽しめる。境内には植物で埋め尽くされた前庭があり、建物全体と調和するように、石畳の道が巧妙に配置されている。石畳が格子状に張り巡らされているが、モモ、サクラ、アジサイ、スイセン、シャクヤク、キキョウなどの自然なたたずまいや、人工的につくられたフジ棚が、くすんだ色の木造の壁を引き立たせ、見る者の心を打つ。瑞泉寺は「鎌倉の花の寺」としても有名であり、まさにその呼び名がふさわしい寺だといえる。

寺の入り口には石の階段が二つある。一つは古くからある石段であり、苔むした階段が不規則に続いている。その右手には花崗岩の階段があり、こちらのほうが登りやすい。薄暗いスギ林と竹林のあいだを登る参道は、木々が頭上を覆っているため、夏でも涼しい。しかし、鎌倉北東部の丘陵沿いの断崖に隣接する寺院の特徴として、湿度は高い。

本堂の裏手にある石庭は、ほんのわずかしか手が加えられておらず、洞窟と池からなる自然な風景が広がっている。花や植物、庭石など、不必要なものを省いたこの庭園は、禅の厳しさを表現する最高傑作の一つに数えられている。崖の岩肌に掘られた洞窟と、その内部にある棚は、かつてここに仏像が安置されていたことを示唆している。実際、「天女洞」と呼ばれる洞窟には、芸術をつかさどる女神・弁財天がまつられていた。しかしそれは、長いあいだ土に埋もれていた。夢窓疎石はこの洞窟で何時間も座禅を組んだといわれている。疎石が造った岩庭と心字池は、1970年に発掘され、もとの状態に復元された。

飾り気のない庭園――美しい庭園というよりも、他に例を見ない自然のままの庭園――という印象を見る人に与えるのは、おそらく崖と洞窟が、いわゆる型どおりの庭園ではなく、中国西部の奥地・敦煌にある仏教遺跡の石窟に近いものをイメージさせるからだ。飾り気のない庭園という夢窓疎石の実験的な試みが、林間の空き地に見られる神道以前の原始的な庭園や、古代中国で砂漠の周縁部に岩石を使って造られた初期の石庭を、見る人に連想させるかどうかは、参観した人の想像力次第だといえる。非常に異なる特徴をもった瑞泉寺の二つの庭園は、物事の二面性を表しているのだと解釈されることがある。見た目はあきらかに正反対だが、じつはこの二つの庭園は、完全に調和のとれた庭園なのである。瑞泉寺の山号である「錦屏山(きんぺいさん)」は、境内を錦に染める紅葉の景色に由来している。花々や木々が織りなす境内の風景は、一年を通じて常に変化している。

鎌倉の北東にある墓所が、われわれに時の流れを感じさせるものだとすれば、瑞泉寺のように青々と緑に覆われた空間は、われわれに希望を感じさせる空間であり、生を肯定し、季節が巡ることを再確認させてくれる場所だといえる。

旅行情報

Lotuses blossoming at Myoo-in.

鎌倉は、東京や横浜からの電車の便がよい。記事のなかで取り上げた観光スポットの最寄り駅は、北鎌倉駅あるいは鎌倉駅。鎌倉駅は改札を出て右手にレンタ・サイクルの店があるので便利だ。親切な観光案内所もあり、英語版の観光マップも入手できる。ジョン・キャロル著『Trails of Two Cities』(講談社インターナショナル)は、鎌倉に関して広い範囲の情報が得られる。陸奥イソ著『Kamakura: fact and Legend』(Tuttle Publishing / Kegan Paul International)は、歴史的な記述が興味深いガイドブック。バリット・セイビンが来年出版を予定している本は、鎌倉の歴史についての最も信頼のおける書籍になるはずだ。鎌倉の仏教彫刻についての難しい背景知識や用語を知りたいときは、鎌倉在住のマーク・シューマーカーのウェブサイト(http://www.onmarkproductions.com/html/terminology.shtml)が、すばらしい情報源となる。

Story and Photographs by Stephen Mansfield
From J SELECT Magazine, December 2010
【訳: 関根光宏】