直島:アートと出会う

雑音が聞こえるのがあたりまえになってしまった

この国では、高松から瀬戸内海にある小さな島・直島(なおしま)に向かうフェリーの船上でも、絶え間なく船内放送が聞こえてくる。しかしフェリーから降りてしまえば、余計な雑音からすぐさま解放される。この島では、せいぜい控えめな防災無線ぐらいしか聞こえてこない。

崇徳天皇が島流しにされた島として歴史の片隅に名を残すこの島は、1990年代初頭には人口が3000人ほどに落ち込み、島を出る若者があとをたたなかった。ところが1992年、高級ホテル「ベネッセハウス」が開業し、それとともに数々のアートプロジェクトが立ち上げられたことによって、この島は一気に再生へと向かった。産業廃棄物再処理プラントという気味の悪い施設がある漁村が、芸術の島に生まれ変わったのである。直島の島内を散歩していると自動販売機がないことに気づく。道路沿いには観光案内の標識だけが目立たなく設置されている。このような景観はベネッセコーポレーションの方針に沿って意識的につくられていることは明らかだが、心地よい景色が続く様子はこの島の特徴となっている。

主要なアートサイトは、直島の中心的な港である宮浦港の南東に広がっている。だが、自転車や徒歩で散策に出かける前に少しだけ時間をとって、港の近くにある「007赤い刺青の男記念館」を訪ねてみるのもよいだろう。ジェームズ・ボンドが登場する小説『赤い刺青の男(The Man with the Red Tattoo)』の舞台が直島であることを知らなければ、どうしてこのような記念館がここにあるのか、不思議に思うにちがいない。著者のレイモンド・ベンソンは、イアン・フレミングの後継作家として、イギリスの情報機関MI5の諜報部員を主人公とした冒険スパイ小説007シリーズを執筆した。そのなかには、007シリーズの大ヒット映画を小説化した作品も含まれている。直島では映画のロケを誘致しようと大々的なキャンペーンがおこなわれているものの、それが実現する可能性はかなり低いと言わざるを得ない。直島が美しい島であることはまちがいないが、わざわざ直島でロケをおこなわなくても、ヨーロッパにはその代わりとなる場所がいくらでもあるからだ。こぢんまりとした記念館にはレトロな雰囲気が漂っている。展示のメインとなっているのは、1967年の映画『007は二度死ぬ』に出演したショーン・コネリーや、日本のボンドガール(女優の浜美枝)のスチール写真である。007シリーズのビデオの放映や、ゆかりの品の展示もある。ベンソンの著作も並べられていた。

宮浦港から南に向かうと、気持ちのよい道が続く。坂道だがそれほどアップダウンはきつくない。誰もいないビーチや、風の彫刻とでもいうべき砂丘が、この島の美しさを物語っている。自転車で20分ほど走ったところで左に曲がり、カーブの多い道をさらに進むと、地中美術館が見えてくる。この美術館は、モネの「睡蓮」シリーズの4点の絵を展示することを目的として、ベネッセコーポレーションの会長が出資する財団法人によって開設された美術館である。モネの絵が展示された部屋に行くまでの空間には、ジェームズ・タレルやウォルター・デ・マリアなど、著名な現代アート作家による彫刻やインスタレーションが飾られている。美術館のゲートから建物に向かう道の途中には「地中の庭」がある。この庭には、モネがフランス・ジヴェルニーの自宅の庭で育てていた花や植物が植えられている。

海岸沿いの道に戻ると、屋外に設置された美術作品に出会える。たとえば、案内板にしたがって林のなかをビーチの方向に歩いていくと、中国から運ばれた36個の石を、古代ケルトのドルイドのストーンサークルのように並べた「文化大混浴」がある。これは中国人アーティストの蔡國強による作品で、その中心にはジャグジーバス(風呂おけ)が設置されている。道沿いにそのまま登っていくと、直島観光の中心的な施設であるベネッセハウスミュージアムにたどり着く。安藤忠雄が設計したこの美術館は、瀬戸内海を望む丘の上に建てられている。展示されているのは、ブルース・ナウマン、ジャスパー・ジョーンズ、デイヴィッド・ホックニーなど、世界的なアーティストの作品だ。

この島にいると、島全体がベネッセの私有地になりつつあるような印象を受ける。実際にベネッセコーポレーションは、島の主要な土地を買い占めている。レンタサイクルで海沿いの観光施設を回るには、険しい坂を上り下りしなければならない。ここでは海岸沿いの道が歩行者専用になっているからだ。パーク棟(宿泊施設)のビーチで、こっそりと自転車をこいで敷地の外に出ようと思ったのだが、ベネッセのスタッフに注意され、だらだらと続く長い登り道を自転車を押しながら歩く羽目になってしまった。しかしパーク棟周辺は非常に眺めがよかった。草間弥生のカボチャの彫刻――ミュージアム専用桟橋のはずれに設置され、この島のシンボルにもなっている――を見るだけでも、行ってみる価値が十分にある。

印象的なカボチャの彫刻を見たあとは、島の内陸部を通り抜け、東側の海岸に向かう。そのまま北上すると、本村(ほんむら)という漁村に出る。この地区では「家プロジェクト」が進行中だ。特定のアーティストやデザイナーの指揮のもと、古い民家を一軒一軒アートとして再生しようというプロジェクトである。あくまでも建物と空間を主役として、その家のもともとの所有者と協力しつつ、日本的な美意識や伝統と調和する環境を創造することが、このプロジェクトの目的だ。

ベネッセは古い家や店舗の所有者に働きかけ、大勢のアーティストの協力をあおいで、本村という漁村をひとまとまりの芸術作品へと変えた。

本村に家を所有しているごく普通の人や漁師たちは、ある日突然、自分がベネッセの「家プロジェクト」の一員となっていることを知ったのだ。もともとはグレーの瓦を葺いた木造家屋だった本村の民家の何軒かでは、壁に炭化させた松の厚板が貼られ、ベンガラ(濃い赤さび色の伝統的な塗料)で部分的に塗装がほどこされた。それらのうちの何軒かは、ギャラリーや喫茶店、クラフトショップ、土産物屋として一般にも公開されている。集落を出て小高い丘の方角に向かうと、さらにたくさんの美術作品を見ることができる。

家をアートとして再生することは、そこを訪れる人を楽しませるだけでなく、建物の寿命を延ばすことにもつながっている。本村の集落は細部にいたるまでアートにあふれている。実際、多すぎて見逃してしまうほどだ。たとえば集落を歩き始めてから1時間ほどたってからはじめて気がついたのだが、建物の軒先にかけられている「のれん」(家やギャラリーや商店の出入り口につるされる布)がびっくりするほどすばらしいのだ。各建物で使われているさまざまなカーテン類は、テキスタイルアーティストの加納容子によって一点一点デザインされ、手作りされたものだということをあとになって知った。それが飾られた建物が50以上もある。

アートにあふれた本村だが、港や神社や古い城跡などを訪れると、この島の伝統的な暮らしのかたちをかいま見ることができる。しかし、明らかに営利主義的な光景—クルーズ船、土産物屋、20種類ものかき氷を売る売店、猫カフェ「CAT CAFÉにゃお島」なども、わずかながら見られる。その多くはセンスのよい店構えになっているが、もちろんそれは、なんらかのかたちでベネッセの意向が反映されているからにほかならない。

本村に展示されているさまざまな作品からは、穏やかで控えめな印象が感じられる。あくまでも美術館に展示されているモネやデイヴィッド・ホックニーの作品とくらべた場合の話だが、本村に展示されている作品を見ると、クラフト作家や才能のある新人の作家が手がけた作品であるかのような印象を受けるのだ。そして本気でアートと取り組んでいる気持ちが伝わってくる。たとえば千住博の2006年の作品「石橋」。この作品の庭は、不自然なまでにそっけない景色で構成されている。草の生えていない空間に、一枚の厚い岩でつくられた橋が設置された庭――それを真剣な目でじっと見つめる来訪者に、無言のまま、うやうやしい気持ちで作品を見てもらおうとする効果を意図的にねらっているかのようだ。はたしてこれはアートなのか、それともアートまがいのものなのか。その答えは、実際にここを訪れた人の判断にまかせることにしよう。もちろん同じような印象は、巨大なカボチャや、架空の動物の彫刻、漁船の船首の残骸のようなオブジェ、島のあちこちで見られる巨石などにもあてはまる。これらはすべてアートなのだろうか、それとも冗談半分の作品なのだろうか。つまるところ、作品が見る人のイマジネーションをかきたてるかぎり、その答えはどちらでもよいのだ。物事をまだ分析的に考える習慣が十分発達していない子供たちは、これらの作品をすなおにおもしろがる。本村に関して言えば、ここに滞在する本当の楽しさは、小道を散策しながら、民家や、小さな庭や、倉庫など、控えめながらも独特の雰囲気をもつ建物や庭を見て回ることにある。

直島は小さな島だが、方角を見失って迷子になってしまうこともある。宮浦までの帰り道、来た道とは別の道で帰ろうとして迷ってしまった。しかし直島のような管理の行き届いた島では、道に迷っても大ごとになるおそれは少ない。実際、すぐに人に出会って道を教えてもらうことができた。ベネッセは中途半端にものごとをおこなう会社ではないようだ。庭師や駐車場の係員、美術館の警備員たちは、全員きちんと身なりを整え、英語での会話も満足できるレベルに達していた。

旅行情報

高松から直島の玄関口・宮浦港までは、フェリー航路がある。宮浦にある

「民宿よこんぼ」(電話:090-1573-7735)は、庭からの海の眺めがすばらしい。「ベネッセハウス」(電話:087-892-2030)は、すばらしい宿泊施設だがそのぶん料金も高い。「民宿石井商店・本家」(087-892-2480)は、本村にある快適なゲストハウス。レストランでは、庭のある「カフェまるや」が一番のおすすめだ。宮浦港の「海の駅なおしま」には、観光案内所とカフェがあり、貸し自転車のカウンターもある。レンタル料は1日500円。自転車は道路の反対側にあるレンタルショップで借りることになる。島を巡るバスもあるが、本数が少ないのでタイミングが合わないとしばらく待つことになる。

Story and Photo by Stephen Mansfield
J SELECT 2011January掲載
【訳: 関根光宏】