露地─茶庭への旅

茶室がある場所を地図上に記入していけば、日本全国を旅して回るプランがいとも簡単にできあがる。文化があるところには茶席がある、と言っても過言ではない。
雄大な山々に囲まれていると、どんな自信家でも謙虚な気持ちになる。それは、露地(茶庭=茶室に付属する庭)に入ったときに気持ちが引き締まり、自分が小さく感じられるようになる感覚と、どことなく似ている。茶庭を歩くことは、空間を物理的に移動するだけでなく、時間を移動することでもあるのだ。
日本においてお茶を飲むという行為は、厳かな歴史を有している。お茶の葉は、12世紀に栄西(※1)によって日本にもたらされた。洗練された芸道としての喫茶の習慣は、室町時代(1334〜1568)に中国の明から日本に移入された。当時、貿易の拠点は大阪にあった。堺の富裕な商人たちは、茶道具、特に陶磁器の購入に莫大な資金をつぎ込むことで有名になった。
茶の湯への関心は、その後100年あまりの間に、夢窓国師(夢窓疎石)(※2)、大徳寺の住職で書家・詩人でもあった一休宗純、16世紀の茶人・武野紹鴎などの活躍によって、一気に高まった。室町時代のもっともすぐれたアーティスト・思想家の一人であった一休は、茶の湯と禅僧が結びつきうることを主張した。
村田珠光は、茶の湯のための建物を住居や寺院から独立させて数寄屋(茶室)をつくりだし、茶道の祖とされている。珠光は、狭いながらも居心地のよい四畳半茶室をつくったと伝えられている。これはいわゆる「草庵風」の茶室と呼ばれているもので、これによって茶の湯に精神修養的な要素が加えられた。
しかしながら、日本の茶道を洗練の域にまで高めたのは千利休であるという点で、多くの人の意見は一致している。利休は喫茶の習慣を「真実に近づく道」へと変えた。政治と美は混同すべきではないという教訓からすると、利休と、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉との関係は不運なものに終わった。利休の信奉者でもあった秀吉は、茶室を政治的密談の場として利用した。そのことは、利休という茶人の心を激しく動揺させたにちがいない。
その理由はいまだに不明だが、利休の権威や社会的地位が、なんらかのかたちで秀吉の地位を脅かすようになり、利休が秀吉によって切腹を命じられることにつながったのではないかと思われる。典型的なあきらめの境地に若干の勇ましさが加わった利休の遺偈
(※3)は、次のようなものであった。

人生七十 力囲希咄
(じんせいしちじゅう りきいきとつ)
吾這宝剣 祖仏共殺
(わがこのほうけん そぶつともにころす)(※4)

 利休の弟子の古田織部は、今日の庭園の原型をつくった人物だとされている。茶庭に飾り気がなさすぎると感じていた織部は、庭に石や木を配するアイデアを取り入れ、緑が多く、審美的に美しい空間──人工的ではあるものの──をつくりだした。織部は、竹などを使って生垣を設け、茶庭をいくつかの区画に分けた。雰囲気を出すために石灯籠が据えられるようになったが、新しくつくるよりは風化したものの方が高く評価された。ときとして石の仏塔や、仏教と関わりのある彫刻のたぐいも用いられた。また、廃絶などで不要になった御影石製の橋脚や墓石も再利用された。古い寺院の瓦が、地面に埋められて境界の役目を果たこともあった。

 茶庭の多くは苔で覆われている。特に京都ではそうだ。というのも、京都の夏は湿度が高く、苔の生育に最適だからだ。だが、東京・南青山にある新しい根津美術館などでも、すばらしい苔を見ることができる。そこでは、木陰をつくって太陽の光が苔に直接当たらないように工夫されている。東京・駒込の六義園にある茶室でも、苔を観賞できる。
こうした庭園では、自然をそのままの形で取り入れているわけではない。自然を再配置しているのだ。洗練された庭園になると、自然を超えてしまうこともある。茶庭を訪れる人は、単に庭園に入るだけでなく、暗喩の世界に入り込むのである。そもそも茶庭と茶室は、人里離れた場所につくることがもっとも望ましいとされている。しかし、茶庭のすぐそばまで都市空間が迫っているため、この条件を満たすことは、ますます難しくなってきている。東京・駒込にある旧古河庭園の茶室は、こうした状況を示すよい例だと言える。木々の生い茂る中に美しい茶室があるのだが、茶室は庭園の外辺部に位置しており、交通量の多い道路からも近い。静かな空間で観照にふけることは、ほとんど不可能に近い。
茶の湯(茶道)では、ヨガや座禅と同じように、心や体をリラックスさせると同時に、緊張感を保って感覚を研ぎ澄ますことが要求される。茶道にはヨガや座禅のような肉体的な厳しさはないが、一つだけ重要なことが求められる。それは、謙虚さである。茶道は、日本の美意識・歴史・芸術・文化・伝統の諸側面を象徴的な美しさに凝縮したものであるが、癒しの効果もある。
不完全な世の中において、日本の庭園は理想的な環境を象徴している。まるで、世界のあるべき姿を示しているかのようだ。すべてが完璧なバランスとダイナミズムのもとに配置され、心に安らぎを与えてくれるのだ。自然とアートが混然一体となった日本の庭園を深く理解するためには、その構成要素や、全体を貫く哲学、そしてそれがどのように具現化されているかを知る必要がある。庭園に込められた象徴的意味は特に秘せられているわけではないが、それらを読み解くためには、いくつかの用語を知っておいた方がよい。茶の湯の基本的構成要素は、「和」(調和)、「敬」(敬意)・「清」(清浄)・「寂」(静寂)である。このうちどれか一つでも欠けると、精神的・美的な統一性は崩れてしまう。これら四つのすべてが、茶室の空間内に象徴的に取り入れられている。
伝統的な茶室は、ひなびた趣を有していなければならない。庭園に関する著作があり、庭園デザイナーでもあるマーク・ピーター・キーンは、次のように記している。「露地を歩くことは、町中から奥深い山の中にある隠者の庵への旅を、精神的に追体験することを意味している」。古雅の趣は、茶室自体を構成する各要素の中に込められているだけでなく、茶道具、特に陶磁器の茶碗にも込められている。
茶庭には、いかにも年月を経たような古びた様子が色濃く感じられる。そのことは、比較的新しい茶庭であっても変わらない。このような状態は、庭園が輝きを失ったり落ちぶれたりしていることを意味しているのではなく、むしろ「味わい」としてとらえられている。湿度が高い夏に庭園を訪れてみると、この雰囲気をとりわけ強く感じることができる。夏になると、庭石や石灯籠、手水鉢(ちょうずばち)が苔や藻に覆われている様子や、茶室の壁が変色している様子が鮮やかに浮かび上がってくるからだ。
閑寂な趣(風雨や湿気にさらされることによって生じる)は、長い年月をかけて醸し出される。茶道で重んじられているこうした美意識は、「わび・さび」と呼ばれる。「わび」は「わびしい」、「さび」は「さびる」「さびしい」という言葉がもとになっている。「わび」と「さび」が合わさった「わび・さび」という言葉は、ものしずかでひっそりとした美しさを意味している。年月を経ることによって物や景色が十分に洗練されて味わい深いものになり、それによって独特の風格が生み出されるのである。
茶道では、もてなしの心を重視することによって、寛容の精神が培われる。家やカフェで一つのティーポットに入ったお茶を皆で分け合うときと同じように、友人や家族、共同体がお茶を媒介として一体となるのだ。茶庭を訪れ、茶庭を通り抜けて茶室に入り、茶席に着くという行為自体は、誰にでも開かれている行為だと言えるかもしれない。しかし、茶道においては作法が厳格に定められている。あらゆる所作に深い意味が込められ、それぞれに決まりがある。茶事に招かれた客が茶室に入るまでの過程は、詳しく記述するに値する。というのも、茶道に関する美的価値の多くが、そこに具現化されているからだ。
茶庭は通常、外露地と内露地の二つの区画に分けられている。茶席の客はまず、「腰掛」と呼ばれる休息所に案内され、亭主の迎えや、席入りの合図を待つ。亭主から声が掛かると、「中潜(なかくぐり)」と呼ばれる中門へと進み、フォーマルな茶席の場合はここで亭主からの挨拶を受ける。中門はそれ自体が魅力的な特徴をもっている──檜皮葺(ひわだぶき)の場合もあれば、茅葺(かやぶき)の場合もある。中門を通り抜けるときは、わずかに腰をかがめなければならない。それによって、謙虚さを再確認するのである。内露地には飛石が敷き並べられている。飛石はその高さや間隔が入念に考えられて設置されていて、客が楽しみながら歩けるように工夫されている。同時にそれは、客の歩みを緩め、客の歩調を茶事に適した速度に調整する役目も果たしている。次に、客は「手水鉢」(手を洗う水を入れておく鉢)で、自身を洗い清める。ここでも再び、身をかがめることが必要となる。客は「蹲柄杓(つくばいびしゃく)」という竹のひしゃくを使って、手と口を清める。以上で、数寄屋(茶室)に入る準備が整ったことになる。
茶室の中では、不安を感じたり神経質になったりする必要はない。いったん茶道具の前に座ってしまえば、一時的とはいえ、日常生活上の気がかりな諸事雑事から、現実的な意味でも比喩的な意味でも逃れることができる。茶事が終われば、満たされた新鮮な気持ちで茶室を後にすることができる。

Story and pictures by Stephen Mansfield
J SELECT Magazine, February 2010掲載
【訳: 関根光宏】