把瑠都凱斗〜エストニア共和国出身の大相撲力士〜

十代前半の頃、カイド・ホーヴェルソンはバスケットボールを愛する少年だった。エストニアの生まれ故郷である村の子供達と同様、彼は、シカゴ・ブルズで活躍するマイケル・ジョーダンを見て育った。
十代の後半になると、彼の体は明らかに他の子供達よりも大きくなり、高校では相撲部に入部した。なぜ自身の文化とは大きく異なった相撲の世界に足を踏み入れたのだろうか。あまり深くは考えてなかったという彼の答えは、ファンにとってみると、少し想像していたのとは違うかも知れない。一方で、彼は、日本の国技である柔道にも挑戦している。体の大きな選手が、海外での活躍が期待される柔道に挑戦するのは自然な成り行きであった。ホーヴェルソンは言う。「柔道部と相撲部のコーチが同じ人だったのです」
高校を卒業すると、ナイトクラブの用心棒として働いた。このことは、大相撲の世界に入門後、取り分け日本のメディアが好んで取り上げる話題である。力士となってからインタビューに応じている時に、命を脅かされた経験があったとして明るみに出た。後に、彼の経験は誇張されて報道されたと語るホーヴェルソンであるが、「悪いこともたくさん起こりました」と語る。
鹿児島県相撲連盟の推薦により、ホーヴェルソンは日本のプロの相撲界に入る機会を得た。三保ヶ関(元増位山大関)部屋に入門することとなった。当時、三保ヶ関部屋は、外国人力士を受け入れる唯一の部屋であった。この機会を得た時、ホーヴェルソンは、「どこに断る理由などあるだろうか」と考えたという。
力士養成期間を経て、2004年5月場所で初土俵を踏んだ。彼の母国であるエストニアが面するバルト海にちなんで、四股名は把瑠都になった。幕下では、15日間で7番取組みを行う。バルト海出身のティーンエージャーは、80以上ある決まり手の中から6手を使い、土俵に上った全ての力士を打ち負かしていった。初土俵を序ノ口優勝で飾った把瑠都は、序二段に昇進した。把瑠都は、序ノ口・序二段と2場所連続で優勝を果たすというスピード昇進をした。序二段の試合では7番全勝し、優勝決定戦で同じ三保ヶ関部屋の力士、里山浩作と勝負し勝った。
国内外のメディアは、この北ヨーロッパ出身のブロンドの少年が持つ可能性に対して、ようやく目を覚ました。記録的な速さで幕内を昇進し、横綱に十分なり得る可能性があるとメディアは報道した。
有名となった今、プレッシャーを感じることもあるという把瑠都であるが、来日当初は困惑することも多かったと語る。初優勝後の数ヶ月間の東京での印象を尋ねてみた。「東京はとても大きいですね。車や人通りが多くて、道はとても狭いです」把瑠都は、にこやかな笑顔で語った。この笑顔は、両国国技館で売られている把瑠都のTシャツにも見ることができる。本場所において、ファンがあちこちで身に着けているのを見ると、把瑠都の人柄が慕われていることがわかる。
この頃、把瑠都は相撲部屋を変えた。このことは、相撲界においては非常に珍しいことである。伝統を特に重んじる相撲界においては、力士は若い頃に相撲部屋に入門し、同じ部屋で経験を積んでいくことが求められている。親方が定年を迎えて退職する時、あるいは、部屋付親方が部屋を独立する時以外は、移籍することは例外的なことである。移籍が許可された時には、移籍が滞りなく進むよう、所属している部屋の親方が全面的に支援してくれる。
両国にある三保ヶ関部屋から大田区にある尾上部屋(元濱ノ嶋小結)に移籍したことは、把瑠都にとって重要な局面となった。移籍について感想を問うと、把瑠都は少し困惑したようで、「どのように感じたかはわかりません。ここ(三保ヶ関部屋)は良いところです。でも、新しい部屋も良いところに違いありません」母国エストニアの土地柄からか、把瑠都は言語に長けている。流暢な日本語を話せるだけでなく、母国語であるエストニア語以外にも、3ヶ国語に堪能である。「母国語以外では、ロシア語が一番で、次に英語。その次にドイツ語ですね」言葉に堪能であり、今は関脇となった把瑠都であるが、彼は孤独を愛する男でもある。彼の趣味は釣りだそうだ。「でも、隅田川はイヤですね」
その後、把瑠都は2005年9月場所で十両に昇進した。十両になって初めての土俵では、把瑠都は堂々と12勝3敗で勝ち越した。翌場所は新入幕を十分狙える位置にあったが、場所初日に急性虫垂炎を発症し全休、幕下に陥落した。幕下では地力の違いを見せ幕下優勝、1場所で十両に復帰した。2006年3月場所では十両全勝優勝を果たし、新入幕を決めた。
初土俵から二年足らずの2006年5月場所では、11勝4敗で準優勝の成績をおさめ、敢闘賞を受賞した。翌日、どのような気持ちで目覚めたか聞いてみた。彼の答えはとても地に足が着いたものであった。「いつも通りの朝でした」マスコミの度の過ぎた大騒ぎについて聞いてみた。彼は、外国人が良く口にするコメントを発した。「日本のマスコミは、何でも矢継ぎ早に質問攻めにします。『何が好きか』『どんな気分か』質問ばかりしますね」把瑠都はしかめ面をしながら言った。
197cm、184kgの巨漢である把瑠都は、日本の相撲界において多大なる影響を及ぼしている。特に、巨体を持つモンゴル人力士たちや、最近好成績を残せていない日本人力士たちと互角に戦い、好成績を残している外国人力士の一人だ。
2008年の後半から2009年にかけて、把瑠都の関脇から大関への昇進が大いに期待された。多くの力士が大関になれる訳ではない。しかし、昨年の終わり、把瑠都は二桁勝利を達成し、大関昇進の可能性は一層強まった。エストニア共和国出身の大関が見られる日も、そう遠くないであろう。
ブルガリア出身の大関、琴欧洲に続き、二番目のヨーロッパ人大関への期待と可能性の強まった把瑠都は、笑顔が美しく、自分自身にもファンに対しても正直な青年であると感じた。そのままの彼であってほしいと願う。マルチリンガルでバスケットボール好きの彼は言った。「人生は楽しいものです。人生を楽しみ、自分自身を楽しみ、他の人との交流を楽しみましょう」

Story by Mark Buckton
J SELECT Magazine, February 2010 掲載
【訳: 青木真由子】